今回は仏教のエッセイです。
今まで仏教のエッセイの記事の中で幾つかの経典(お経・陀羅尼)や教えについて述べてきましたが、そもそも仏教とは仏様(お釈迦様)の”悟りを開く、苦しみから解放される為の心得や修行方法など”の教えです。
自分の欲や願望からなる「こういう物が欲しい」「こうなりたい」などという私欲の願い事を叶え為や”悪霊払い””呪術”などといったTVで特集されるような超常現象を目的としたものでは全くないのです。
そのお釈迦様は幾つもの言葉を生前に残しています。
そのお釈迦様の言葉・教えを弟子たちがまとめ上げたものが原始仏教(小乗仏教)の経典になるわけで(現代の日本の仏教の種は大乗仏教で、小乗仏教は大乗仏教の元祖。大乗仏教は小乗仏教を基にし密教を取り入れて成り立ったといっていいでしょう)、お経の意味を知る事はお釈迦様の教えを学ぶことに他ならないと言ってよいでしょう。
小乗仏教と大乗仏教、密教については他の仏教エッセイの記事で述べていますので参照下さい。
そのお釈迦様の言葉の一つに次のような言葉があります。
「罪業は熟するまでは蜜のように甘い」
罪業が熟するまで、愚かな人はその蜜の甘さを味わう。罪業が熟した日から苦しみが始まる・・・というのです。
罪業は言うまでも無く悪い行いの事。仏教の教えの中では特に”殺人、盗み、妬み、僻み、悪口、二枚舌、愚痴、嘘など”を直接挙げています。
悲しいかな人間は、悪口や陰口、愚痴を言うと気分が楽になるものです。優越感も生まれます。これは深層心理の分野でも言われている事です。
しかも、愚痴などはストレスを緩和させることとして「愚痴を言う事も大事」なんてことが現代言われているほどです。
しかし・・・どうでしょう?
他人の愚痴や陰口悪口を聴いていい気分になれるものでしょうかね?
私は他人の悪口や愚痴などをず~っと聞いていると気分が悪くなります。聞きたくありません。
・・・まぁ、一応社会人ですので、そういった事を耳にする事はありますけどね・・・本当に仕方なしです。
二枚舌や策略を用い、他人を落とし入れる事で自分の立場や地位を揚げても、自分はよいかもしれませんが、その犠牲になった人の立場になれば、悪以外の何物にも見えないはずです。
つまり、罪業、悪行とは、自分にとっては蜜のように甘く心地よいものだとお釈迦様は言い残しているのです。
そして、その甘く心地よい悪という蜜を吸い続け蓄積されて、そしてその罪業・悪が熟したその時にその報いを受ける苦しみが自分に始まる。
そう、度々仏教のエッセイの中で述べている”因果応報”です。
誰も見ていない、バレない、だから平気。大した事ない。
・・・違いますよね。
仏教では御仏は神(天部)を超えた存在で、”全てお見通し”という存在と説いています。
御仏の前に座る事、立つ事、御仏を念じる、思う、語りかける、読経するなどといった事は、全てを見通された状態で対面しているという事になるわけです。
ですが人間である以上、不本意に相手を傷つけたり嫌な思いをさせてしまったりすることはどうしてもあるものです。しかし、その事を認め悔いる為に”懺悔文”を読み上げる事があり、御仏はその不本意と悔い謝罪を必ず認め、神(天部)と違い人に罰を与える事は無いとされています。
懺悔文についても仏教エッセイの記事で述べていますので参照下さい。
ともあれ、悪とは人にとって甘く心地よいもの。しかしそれを行う事は、いずれ自分の身に自分の苦しみとなり必ず返る。
それは「業の支配からは逃れられない」というお釈迦様の言葉があり、お釈迦様ですらその業の支配からは逃れる事は出来ないと言っています。
一時の心地よさや自分の立場や地位の為、他人を傷つけ、その為にいずれ自分が苦しむといった、墓穴を掘る事は避けて、日々過ごしたいものですね。
今まで仏教のエッセイの記事の中で幾つかの経典(お経・陀羅尼)や教えについて述べてきましたが、そもそも仏教とは仏様(お釈迦様)の”悟りを開く、苦しみから解放される為の心得や修行方法など”の教えです。
自分の欲や願望からなる「こういう物が欲しい」「こうなりたい」などという私欲の願い事を叶え為や”悪霊払い””呪術”などといったTVで特集されるような超常現象を目的としたものでは全くないのです。
そのお釈迦様は幾つもの言葉を生前に残しています。
そのお釈迦様の言葉・教えを弟子たちがまとめ上げたものが原始仏教(小乗仏教)の経典になるわけで(現代の日本の仏教の種は大乗仏教で、小乗仏教は大乗仏教の元祖。大乗仏教は小乗仏教を基にし密教を取り入れて成り立ったといっていいでしょう)、お経の意味を知る事はお釈迦様の教えを学ぶことに他ならないと言ってよいでしょう。
小乗仏教と大乗仏教、密教については他の仏教エッセイの記事で述べていますので参照下さい。
そのお釈迦様の言葉の一つに次のような言葉があります。
「罪業は熟するまでは蜜のように甘い」
罪業が熟するまで、愚かな人はその蜜の甘さを味わう。罪業が熟した日から苦しみが始まる・・・というのです。
罪業は言うまでも無く悪い行いの事。仏教の教えの中では特に”殺人、盗み、妬み、僻み、悪口、二枚舌、愚痴、嘘など”を直接挙げています。
悲しいかな人間は、悪口や陰口、愚痴を言うと気分が楽になるものです。優越感も生まれます。これは深層心理の分野でも言われている事です。
しかも、愚痴などはストレスを緩和させることとして「愚痴を言う事も大事」なんてことが現代言われているほどです。
しかし・・・どうでしょう?
他人の愚痴や陰口悪口を聴いていい気分になれるものでしょうかね?
私は他人の悪口や愚痴などをず~っと聞いていると気分が悪くなります。聞きたくありません。
・・・まぁ、一応社会人ですので、そういった事を耳にする事はありますけどね・・・本当に仕方なしです。
二枚舌や策略を用い、他人を落とし入れる事で自分の立場や地位を揚げても、自分はよいかもしれませんが、その犠牲になった人の立場になれば、悪以外の何物にも見えないはずです。
つまり、罪業、悪行とは、自分にとっては蜜のように甘く心地よいものだとお釈迦様は言い残しているのです。
そして、その甘く心地よい悪という蜜を吸い続け蓄積されて、そしてその罪業・悪が熟したその時にその報いを受ける苦しみが自分に始まる。
そう、度々仏教のエッセイの中で述べている”因果応報”です。
誰も見ていない、バレない、だから平気。大した事ない。
・・・違いますよね。
仏教では御仏は神(天部)を超えた存在で、”全てお見通し”という存在と説いています。
御仏の前に座る事、立つ事、御仏を念じる、思う、語りかける、読経するなどといった事は、全てを見通された状態で対面しているという事になるわけです。
ですが人間である以上、不本意に相手を傷つけたり嫌な思いをさせてしまったりすることはどうしてもあるものです。しかし、その事を認め悔いる為に”懺悔文”を読み上げる事があり、御仏はその不本意と悔い謝罪を必ず認め、神(天部)と違い人に罰を与える事は無いとされています。
懺悔文についても仏教エッセイの記事で述べていますので参照下さい。
ともあれ、悪とは人にとって甘く心地よいもの。しかしそれを行う事は、いずれ自分の身に自分の苦しみとなり必ず返る。
それは「業の支配からは逃れられない」というお釈迦様の言葉があり、お釈迦様ですらその業の支配からは逃れる事は出来ないと言っています。
一時の心地よさや自分の立場や地位の為、他人を傷つけ、その為にいずれ自分が苦しむといった、墓穴を掘る事は避けて、日々過ごしたいものですね。