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Channel: 辰姫 ~石田三成の娘の生涯と軌跡~
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交通事故の診察と幾つかの手続き等を済ませ思った事

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 今日は追突事故の診察の日でした。
 まだ症状はあるものの、徐々に体調も回復の兆しを増してきており、来月には仕事復帰のメドが立ちそうな感じです。

 仕事をしているうちはどんな理由にせよ休める事が羨ましく思うものですが、こうして交通事故で負傷し、負傷の症状を抱え不自由のある生活を何十日も送ると、体が自由に利き、仕事に励む”当たり前の日常”がいかに素晴らしい事か実感と痛感を覚えるものです。

 過失ゼロの追突被害者であっても、その全てを保証されるものではありません。
 先の様々な不安、些細な不安も、結局自分で動いて解決に持っていく事が多々あり、正直、「やはり保険会社は加害者救済が本筋であり、被害者が泣き寝入りするケースが多々あるというのは、なるほど、理解できる」と思う事もしばしばです。

 私は過去幾度か交通事故の被害者(人身扱い、ようは怪我人です)となった経験があるので、その時の経験が教訓としてあるので、損害を最小限に出来ていると思います。

 ちょっとばかり汚い印象のお話ですが、それが交通事故の現実というものです。
 早く元の生活に戻る事を目指します。


 こうした立場になると、本当に世の無常さと人の非情さが見えてしまいます。
 いかに相談しても、慰めの言葉はあるかもしれませんが、それを救う為、解決の為に実際に骨を折ってくれる人など、そうそういないものです。

 自分の経験や知識、そして心の支えとなるものの存在がいかに大事なのかをしみじみ思います。


 私には過去の経験と仏教を学んで得た智慧によって、乗り越える事が出来そうです。

 心の支え。自分の信じる支え。
 それは何でもいいと思います。
 仏教であれ、宗教であれ、家族友人であれ、何かのお守りや物であったとしても。

 それで自分の心が保てるのであれば、無責任な慰めの言葉を口にするアカの他人より、ずっと頼もしいものなのではないでしょうか?

 ただ、宗教ともなると、それを強要や勧誘をしたり多額の金額を求める事があるのなら、それは、もはや救いの手段ではなく、単なる”悪しきもの”と私はとらえますけど。


 他人を巻き込まず、自分が救いと思えるものであればそれでいいのです。
 私はそう思っています。


 人生は本来苦しいもの。
 ”生・死・老・病”からは逃れられないもの。理不尽も常。想定外も常。
 その中で、いかに善い姿勢で善い道を歩んでいくか。善い行いをしていけるか。(=功徳を積む事になる)
 それが仏教でいうところの修行というものです。


 人は自身が納得できる境遇(普段)では”イイ人”でいられるが、大抵の人間は自分の不本意極まりない状況では不平不満を漏らし、善い行いを出来なるなるもの。いかなる状況であっても善い行いや善い姿勢を保てるように努むべき。

 そう、これはお釈迦様の教え(仏教の言葉)です。


 私もそうあろうと努めるつもりでいます。

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