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Channel: 辰姫 ~石田三成の娘の生涯と軌跡~
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高台院(おね)の隠れた素顔と辰姫の忍辱と心の強さ

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 辰姫は津軽家に嫁ぐ前に高台院(秀吉の正室:おね)の養女になっています。おねの養女になったのは1598(慶長3)年で辰姫が7歳の時です。

 ここで見逃してならないのは辰姫が養女になった1598(慶長3)年は豊臣秀吉が他界した年だという事です。

 おねの立場から見れば、自分の夫であり天下人でもある秀吉が危篤・死去した年になぜ石田三成の娘の辰姫を養女にする必要があったのでしょうか。
 天下人の正室の養女になるという事は通常、喜ばしい出来事のはずです。
 しかし、実際は秀吉の死去した年に辰姫を養女にしています。冷静に考えれば、仮に表向きでも喪に服す姿勢を取り、養子縁組等の行動はとらないはずです。

 天下人である秀吉の他界した喪に服すべき年では、いかに天下人の正室あるおねの養女になるという養子縁組というめでたい話でも、誰も公に喜んではくれません。
 つまり、高台院の養女になっても、辰姫は公には誰にも祝ってもらえなかった(陰で身内には「おめでとう」と言ってもらえたのかもしれませんね)という事になります。

 この事から見える事は、秀吉他界の年であろうとも、おねがその時期に辰姫を養女にする理由があったという事になります。

 天下人の正室のおねの願いでなら、石田三成は断るはずがありません。

 また、石田三成の立場から見れば、秀吉他界の年の時期には五奉行の筆頭であり秀吉にも豊臣政権において中核に置くべき人物と認められています。その事は石田三成が当時の日本全国の様々な国の検地を任されていた事が物語っています(全国の年貢の基準を統一しその大名の収益を完全に把握し豊臣政権に収益をもたらすという事は日本全体の運営に直結する事だからです。能力もあり信頼のおける人物でないと任せるはずがありません)。
 豊臣政権内では立場的には全く問題の無い、しかも豊臣政権に忠節を置いている石田三成です。
 そんな石田三成が秀吉死去の年におねに辰姫を養女にするという養子縁組を申し出るわけがありません。

 その事から見て、おねが辰姫を養女に迎え入れるという事はおねの側から申し出た事というのが可能性的に大だという事が見て取れます。

 ではなぜ、秀吉他界の喪に服すべき年なのか。

 おねには実子がありません。
 ゆえにおねの立場は秀吉あったればこそ、秀吉政権あったればこそなのです。
 おねは加藤清正や福島正則など子飼いの諸将をわが子のようにかわいがっています。それは石田三成も同様ですが、石田三成はその加藤や福島ら諸将に襲撃され、奉行の立場を追われ佐和山に蟄居の立場を強いられています。
 それでもその三成の娘の辰姫を養女に迎え入れています。

 つまり、おねから見れば、石田三成こそ豊臣政権に不可欠な人物であり、豊臣政権を維持し、かつ己の立場も守る為には石田三成を頼る以外にないとこの時は見ていた事がわかります。
 でなければ石田三成以外の大名の子(男女問わず)を養子縁組するはずだからです。

 TVドラマや創作品では、いまだにおねは石田三成を敬遠している姿を描いているものが多くありますが、近年の調査では、おねが豊臣政権を存続させるために動いていたという動向や資料や調査結果が発見されたり出ています。


 しかし、関ケ原の戦いの後、三成死後も辰姫は津軽に嫁ぐまでの10年もの間、高台院(おね)の養女であり続けます。
 その間は高台院(おね)の執事の孝蔵主と共に養女としての教育を受けながら執事に従事していたとみられる(主に書状を手渡したり面会窓口の働きをする”御披露人”。詳しくは他の記事(”カテゴリーのお客人=辰姫説”)をご覧ください)辰姫ですが、執事故、当然、加藤清正や福島正則等のおねの子飼いだった諸将の書状やその姿を目にしていたはずです。
 父・石田三成を死に追いやった人々と辰姫が知っていたかは定かではありません。しかし、高台院(おね)の養女であり執事でもあった辰姫です。父の敵の顔や名前を知っていてもおかしくはありません。

 父の敵が自分の養母と会い、話をしている。通じている。
 その高台院(おね)の姿や諸将を辰姫はどのような気持ちで見ていたのか・・・接していたのか・・・。

 もし、高台院(おね)に辰姫の事を思いやる気持ちのかけらもあれば、辰姫を自分の傍に養女として執事として置いたままにするはずがありません。

 徳川家康は老齢に差し掛かり、この時代にはすでに老人としての齢です。高台院(おね)からずれば、家康が死去すれば豊臣政権の盛り返しの兆しもあろうと考えてもおかしくはありません。
 その時、豊臣政権に忠節を尽くし一族すら犠牲にした石田三成の娘である辰姫は政治利用の価値が再び出てくるかもしれません。そう考えれば辰姫を手元に置いておく事は高台院(おね)に有益です。
 しかも、”お客人=辰姫説”の記事の中で書いていますが、辰姫は周囲にその素性を隠しています。豊臣秀頼と豊臣政権は衰えたとはいえまだ健在であり、高台院(おね)の立場であれば万が一、辰姫の存在が露見し公になったとしても何とか出来た時期だと見て取れます。

 しかし、それは辰姫の側から見ればこれ以上惨い仕打ちはありません。
 父の敵が養母と親しく接し、話をし、関わりを保つその姿を目の当たりにするのですから。

 その証拠に、高台院(おね)が元・子飼いの諸将と親密に密会を繰り返していた1610(慶長15)年に孝蔵主の働きで辰姫は京から離れた日本の最北端の津軽家に嫁いでいます。
 辰姫の津軽家輿入れと同時に孝蔵主も高台院(おね)のもとを去っています。

 この事からも孝蔵主は高台院(おね)の仕打ち・態度に嫌気がさし、同時に辰姫が津軽家に嫁ぎ高台院のもとを離れた事に安堵した可能性があります。
 その事は石田三成研究で著名な白石了氏も著書の中で同様の事を述べています。


 つまりは、高台院(おね)にとって辰姫は政治利用の道具でしかなく、実子が無い為、身内や面倒を見ていた子たちをわが子の様に可愛がったという、TVドラマや創作品では描かれない高台院(おね)の非情さと冷酷さがハッキリわかります。


 これは私の推測と想像に他なりませんが、父の敵達をその目にし、養母にその書状や案内をする辰姫の心中と姿を想うと胸が痛みます。
 もしかしたら人知れず涙し、孝蔵主に慰められていたのかも・・・または気丈に振る舞っていたのかもしれません。


 辰姫はただ歴史や周囲や権力に流された人物では決してありません。
 辰姫は自分の立場をしっかり理解し、耐えがたきを耐える心を持った女性・姫君であった事が見て取れます。

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