2016年9月3日、青森県弘前市の長勝寺の津軽家歴代の当主の廟を巡った際に長勝寺の説明を寺の従業員に伺いました。
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↑ 長勝寺の入り口の門。境内の津軽家の代々の当主の廟の前に行く為には有料です。
長勝寺は津軽家の菩提寺ですが寺の堂の中の造りは書院造となっており、本尊を祭る場所は住職以上の身分の人間でないと入れないという事を示す造りになっており、長勝寺には長勝寺自体の門と更に密集している寺の一帯に入る為の門と、門が二重に設置されています。まさに城の機能を有しています。
寺が幾つも密集し、その一番奥に長勝寺が存在します。
長勝寺とその周囲に密集する寺は弘前城(高岡城)の着工と同時に津軽信枚が命じ、津軽に散らばる寺を密集させ、更にこの寺群と長勝寺のある場所は、本来は城を気付く予定の地でした。
しかし、山頂が険しい為、その山頂を削り、寺群と長勝寺を設けています。
津軽信枚は弘前城(高岡城)に万が一があった時の出城としてこの寺群と長勝寺を着工・完成させています。それは今現在でも寺が観光客に述べています。
辰姫研究の津軽信枚に関しての記事に記していますが(そちらも参照下さい。詳しく述べています)、弘前城(高岡城)は津軽為信が着工し、途中でその工事を中止しています。数年もそのままの状態でしたが、津軽信枚が辰姫の輿入れの年に弘前城の工事を再開し、僅かな期間で櫓や堀など城自体はおろか、城下町も治水工事も着工し完成させています。まさに突貫工事です。
しかもその弘前城と時を同じくして出城としての機能を有する長勝寺と寺群を設けています。
辰姫の輿入れは関ケ原の戦いから10年が経過してからです。
既に時代は徳川に流れが傾き戦も無い時代、しかも関ケ原の戦いで東軍に組し表向きは徳川寄りの態度を示していた(この時既に津軽家には秘蔵とし江戸時代を通し代々崇める事になる秀吉像がもたらされています)にも拘わらずに、城とその一帯の城下町や治水の突貫工事や出城代わりの寺群・長勝寺を建設するに至ったのか。
不自然です。
これらの全ての工事(ハッキリ言えば戦備え・軍事行動)は辰姫の輿入れの年から開始されています。
それらを総合的に考えると、全て辰姫と結びつきます。
つまり、津軽信枚は辰姫の輿入れによって生じた戦のリスクに備えたという事が言えます。
では、石田三成の実の娘である辰姫を娶る事によって戦となる家はどの大名か?明らかに徳川家です。
もし、信枚に徳川家に素直に従順する気があるのであれば、このような軍事行動をとる必要はありません。にも拘らずに突貫工事すら敢行しこの工事(軍事準備)をしたのはなぜか?
また、辰姫を徳川から匿う方法は輿入れを拒否したり離縁したり寺に出すなりいくらでも方法があったはずです。
しかし信枚は辰姫を娶り、しかも満天姫の輿入れの後も側室として大館の地に移住を余儀なくされながらも妻として手放してはいません。
私の考察では、すなわち、
津軽信枚は表向きは徳川に寄りながらも本心は豊臣公儀への忠誠を持ち、辰姫を石田三成の娘と承知しながら、そのリスクも受け入れ、その事で徳川家(幕府)が津軽に手を出そうとも辰姫を離さず、津軽家と津軽の地をかけてでも辰姫を守ろうとした。その為の弘前城(高岡城)、城下町、治水、出城代わりの寺群・長勝寺の建設と見ています。
満天姫の輿入れは徳川家が信枚に対する”踏み絵”とみてよいでしょう。
拒否すれば潰す(国力は津軽家は約10万石、徳川家自体は255万石以上)。受け入れれば津軽という東北の要所(大きな勢力である最上家や伊達家に睨みが利かせられる位置)を有する津軽家を傘下同然に出来、繋がりを持てます。しかも満天姫から津軽家の情勢を入手する事も可能です。
ここまでの準備をしながらも満天姫を娶り、辰姫を側室に降格し大館の地に移住させたのは、信枚の本意ではなかった可能性が高いと誰の目から見ても明らかでしょう。
これはあくまで推測ですが、信枚は満天姫を受け入れ辰姫を側室に降格させ大館の地に移住させるよう説得をされたのではないかと考えられます。
そう考えれば天海あたりが有力ですが・・・
一族、親、親類縁者、故郷に至るまでを戦で失なった辰姫は、城や城下、治水、出城(寺群・長勝寺)の建設を突貫工事で進め、戦備えをする夫・信枚の姿を見てどう思っていたのでしょうか・・・。
これはあくまで推測です。
推測ですが、私は天海と辰姫の両人が個々、信枚を説得したものと考えています。もちろん天海と辰姫は共に通じ同じ内容で説得したのではないと推測します。あくまで別々に無関係にです。
あくまで推測ですが。
ただ、ハッキリと導き出せる事は、長勝寺の建設も軍事準備の一つであり、その背景には辰姫の存在が大きく関与していたであろうという事です。
ちなみに満天姫の輿入れの際は、信枚はこうした建設や軍事につながる様な行動は全く行っていません。

↑ 長勝寺の入り口の門。境内の津軽家の代々の当主の廟の前に行く為には有料です。
長勝寺は津軽家の菩提寺ですが寺の堂の中の造りは書院造となっており、本尊を祭る場所は住職以上の身分の人間でないと入れないという事を示す造りになっており、長勝寺には長勝寺自体の門と更に密集している寺の一帯に入る為の門と、門が二重に設置されています。まさに城の機能を有しています。
寺が幾つも密集し、その一番奥に長勝寺が存在します。
長勝寺とその周囲に密集する寺は弘前城(高岡城)の着工と同時に津軽信枚が命じ、津軽に散らばる寺を密集させ、更にこの寺群と長勝寺のある場所は、本来は城を気付く予定の地でした。
しかし、山頂が険しい為、その山頂を削り、寺群と長勝寺を設けています。
津軽信枚は弘前城(高岡城)に万が一があった時の出城としてこの寺群と長勝寺を着工・完成させています。それは今現在でも寺が観光客に述べています。
辰姫研究の津軽信枚に関しての記事に記していますが(そちらも参照下さい。詳しく述べています)、弘前城(高岡城)は津軽為信が着工し、途中でその工事を中止しています。数年もそのままの状態でしたが、津軽信枚が辰姫の輿入れの年に弘前城の工事を再開し、僅かな期間で櫓や堀など城自体はおろか、城下町も治水工事も着工し完成させています。まさに突貫工事です。
しかもその弘前城と時を同じくして出城としての機能を有する長勝寺と寺群を設けています。
辰姫の輿入れは関ケ原の戦いから10年が経過してからです。
既に時代は徳川に流れが傾き戦も無い時代、しかも関ケ原の戦いで東軍に組し表向きは徳川寄りの態度を示していた(この時既に津軽家には秘蔵とし江戸時代を通し代々崇める事になる秀吉像がもたらされています)にも拘わらずに、城とその一帯の城下町や治水の突貫工事や出城代わりの寺群・長勝寺を建設するに至ったのか。
不自然です。
これらの全ての工事(ハッキリ言えば戦備え・軍事行動)は辰姫の輿入れの年から開始されています。
それらを総合的に考えると、全て辰姫と結びつきます。
つまり、津軽信枚は辰姫の輿入れによって生じた戦のリスクに備えたという事が言えます。
では、石田三成の実の娘である辰姫を娶る事によって戦となる家はどの大名か?明らかに徳川家です。
もし、信枚に徳川家に素直に従順する気があるのであれば、このような軍事行動をとる必要はありません。にも拘らずに突貫工事すら敢行しこの工事(軍事準備)をしたのはなぜか?
また、辰姫を徳川から匿う方法は輿入れを拒否したり離縁したり寺に出すなりいくらでも方法があったはずです。
しかし信枚は辰姫を娶り、しかも満天姫の輿入れの後も側室として大館の地に移住を余儀なくされながらも妻として手放してはいません。
私の考察では、すなわち、
津軽信枚は表向きは徳川に寄りながらも本心は豊臣公儀への忠誠を持ち、辰姫を石田三成の娘と承知しながら、そのリスクも受け入れ、その事で徳川家(幕府)が津軽に手を出そうとも辰姫を離さず、津軽家と津軽の地をかけてでも辰姫を守ろうとした。その為の弘前城(高岡城)、城下町、治水、出城代わりの寺群・長勝寺の建設と見ています。
満天姫の輿入れは徳川家が信枚に対する”踏み絵”とみてよいでしょう。
拒否すれば潰す(国力は津軽家は約10万石、徳川家自体は255万石以上)。受け入れれば津軽という東北の要所(大きな勢力である最上家や伊達家に睨みが利かせられる位置)を有する津軽家を傘下同然に出来、繋がりを持てます。しかも満天姫から津軽家の情勢を入手する事も可能です。
ここまでの準備をしながらも満天姫を娶り、辰姫を側室に降格し大館の地に移住させたのは、信枚の本意ではなかった可能性が高いと誰の目から見ても明らかでしょう。
これはあくまで推測ですが、信枚は満天姫を受け入れ辰姫を側室に降格させ大館の地に移住させるよう説得をされたのではないかと考えられます。
そう考えれば天海あたりが有力ですが・・・
一族、親、親類縁者、故郷に至るまでを戦で失なった辰姫は、城や城下、治水、出城(寺群・長勝寺)の建設を突貫工事で進め、戦備えをする夫・信枚の姿を見てどう思っていたのでしょうか・・・。
これはあくまで推測です。
推測ですが、私は天海と辰姫の両人が個々、信枚を説得したものと考えています。もちろん天海と辰姫は共に通じ同じ内容で説得したのではないと推測します。あくまで別々に無関係にです。
あくまで推測ですが。
ただ、ハッキリと導き出せる事は、長勝寺の建設も軍事準備の一つであり、その背景には辰姫の存在が大きく関与していたであろうという事です。
ちなみに満天姫の輿入れの際は、信枚はこうした建設や軍事につながる様な行動は全く行っていません。