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Channel: 辰姫 ~石田三成の娘の生涯と軌跡~
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津軽信義の行動から見える辰姫の母としての深い愛情

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 辰姫の性格や人柄を直接表現している史料は存在しません。
 しかし、他の人物やお家や書状の史料をしっかり見て考察していくと辰姫の人柄の一端が見えてきます。

 辰姫には津軽信義(辰姫の一人息子、津軽家三代目大名・藩主)という実子がおり、その信義についても研究記事にしたためています。
 この津軽信義を知る事でも辰姫の人柄の一端が見えます。


 今までの研究記事(津軽信義についてと辰姫の愛情に関する記事)を参照頂いた事を前提に今回の記事は書き記していきますが、この津軽信義を追っていくと辰姫がいかに母性あふれた女性で、信義が辰姫に深い愛情を受けていたかが伺えます。

 津軽信義は奇行が目立ち、更に”ジョッパリ殿様”と言われるほど強情な殿さまでしたが、その奇行と性格は成長発達過程において母の愛情が最も人格に影響するという生後から4~5歳の時期に母・辰姫が他界してしまった事と、その4~5歳までの間、大館という限られた地で史料に”幽閉同然”と示されるような生活・日々を送らざるを得なかった事にあると私は以前の研究記事の中で述べました。

 信義の奇行とは、その殆どが”反徳川”の態度をあからさまにしていたという事です。
 信義の時代は既に豊臣家は滅亡し、徳川幕府管理下に置いて全国が運営されていた時期です。その時期に”反徳川”の姿勢や行動を隠しもせず公にするという事は、お家にとって全国を敵に回すという自殺行為の何物でもなく、徳川政権にいつ揉み潰されてもおかしくない程のリスクを背負っていたからです。
 ・・・この辺りは以前の研究記事のおさらいとして一応記しました。


 しかしながら、その信義の奇行は、幼くして亡くした母・辰姫への愛情が本当に垣間見るのです。


 津軽信義の奇行と言われるものの中で、辰姫がいかに4~5年という短い間に信義(幼名:平蔵)に愛情を注いだという事が反映しているものとして、私は信義が自領内に設けていた東照宮の別当・東照院(寛永元年創設)を薬王院と改称した事に注目します。

 東照院は辰姫の夫にして信義の実父の津軽信枚と辰姫から正室の座を奪い側室に降格させ辰姫の大館移住の原因そのものをつくり自らが信枚の正室となった徳川家康の元養女・満天姫が作り上げた、津軽領内の東照宮の別当です。

 信義は満天姫死後(信枚は満天姫よりも先に他界しています)にこの東照院を薬王院と改称します。

 信枚も信義も徳川家(幕府)の中枢の人物である天海と師弟関係を結んでいます(ゆえに津軽家は天海の宗派である天台宗に改宗しています)。
 薬王院改称は当然天海も知っていたはずです。
 ”東照”とは言うまでもなく徳川家康の死後名付けられた”東照大権現”から来ています。神君となった家康の名です。
 その神君を崇める建設物から神君の文字である”東照”の文字を抹消するという事は現代風にしかも簡単に言うならば「家康を認めませんよ」と公言するのと同様です。

 すなわち、幕府・神君家康を拒絶していますよ、という事であり、幕府の怒りを買ってもおかしくない行為なのです。
 お家にとっては自殺行為にも匹敵するこの行為を信義は敢行します。

 幕府の怒りを買う行為だという事は当然当時の人間であるなら身分問わず理解できていた事です。
 しかもその行為を満天姫死後に天海に知られる事は承知で堂々と行っています。

 最も注目すべきは別当であったにもかかわらず、東照院という建物を改称したという事です。
 ではなぜ、東照院改称がそんなに注目すべき事なのかというのをこれから述べます。


 先に述べた通り、東照院は津軽信義の父にして辰姫の夫の津軽信枚と満天姫によって創設されています。

 もし、信義に実父・信枚への想いや遠慮があったのであれば・・・。
 もし、辰姫死後、自身の養母となった満天姫への想いや配慮、遠慮などがあったのであれば・・・。
 両名が手掛け残した建設物である”東照院”はその名称すらも残している筈です。

 それでも信義は”東照”の文字を抹消します。上記したお家にとってのリスクがあってもです。

 実父・信枚や養母・満天姫を凌駕するほどの何かがあったからこそ、信義は”東照”という名を津軽の地から抹消しているのです。

 私はそれはひとえに”信義の母・辰姫への感情”の表れとみています。

 お家を危険に晒すリスクがあろうとも、津軽の地から”東照”という文字を消したかったから消しているのです。
 しかも、それが実父と養母が手掛け称したものであったとしても消しているのです。

 母・辰姫と僅か5年弱という短い期間を、年に一回しか会いに来ない(厳密には来れない)父。本領津軽に足を運ぶ事も出来ない。自分を生んで育て一緒にいた母が、実は満天姫の存在によってその境遇を強いられた事を知った時の信義の心中は決して穏やかでなかったであろうという事は誰にでも推測できるところです。

 以前の記事にも記していますが、信義は辰姫他界後に辰姫の墓を津軽の地に移す事を満天姫によって拒否され、満天姫死後にようやく辰姫の墓を津軽の地に設けています。
 成人し、一国の主となってからも信義は、しかも二十年以上という月日を要しても自分も同じ石田の血を引く母(辰姫)の墓を自身の領内に移し、死後自らの廟に津軽家の家紋ではなく徳川家の家紋を無数にかざしている満天姫の手掛けた東照院から、神君家康・徳川を象徴する”東照”の文字を一掃しています。
 お家のリスクがあってもです。

 ちなみに信義が正式に津軽家当主として幕府に認められたのは信義13歳の時です。
 ・・・明らかに津軽家にとって当時の信義は”傀儡”です。
 現代に例えるなら13歳の中学一~二年生が県・都知事になるという事と同じです。国政が出来るはずもありません。
 それは信義も自覚していたはずです。
 その反動からか、強引なまでの姿勢で津軽家家臣たちをまとめ、後に領内の治水工事まで着工するのですが(当時、治水工事は一大事業であり、津軽の地は治水に関しては困難極まる地形で、結果は失敗に終わるのですが、信義の着手した治水計画は内容が斬新であり、現在でも高く評価を残しています)・・・。
 更に付け加えれば、信義の他界の際、家臣四名が殉死しています。
 この事からも、奇行と称されながらもその背景に潜むものと信義をしっかり理解していた家臣、信義を慕う家臣が確かにいたという事が解ります。
(超余談ですが、来年の大河ドラマ主人公”井伊直虎”の世継ぎの井伊直政(徳川四天王の一人)は、家臣への厳しさが尋常ではなく、慕う家臣は無く、家臣は誰も殉死していません。)


 辰姫は信義が5歳になる前(4歳の時)に病死しています。
 しかし、その後、異常なまでにあからさまに”反徳川”の行動をとり続けていた事、や、辰姫の墓建設や東照院改称など、その背景に辰姫の存在が浮かび上がるものが多くある事から、成人してからの信義に辰姫は影響し続けている事が解ります。

 そこまで強烈に信義の中に残り続けるほど、辰姫はたった5年弱という短い時間の中で、信義に信義が生涯捨てきれない程の、抱え続けるほどの”母の愛情”を辰姫は確かに注いだという事なのです。
 そう、津軽家の国政を動かすほどに。


 辰姫は我が子に対し、我が子が生涯忘れる事がないほどの、津軽家の国政に影響するほどの、精一杯の溢れんばかりの愛情を注いだ母親であり姫君だったのです。

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