今回は仏教のエッセイです。
仏教エッセイのなかで、幾つかの仏教経典(お経)の事を述べ、また、私自身も読経を日々の日課にしている事は度々述べてきたところです。
そんな私の、このサイトの仏教エッセイの記事を読み、自らも宗派にとらわれる事なく仏教に触れてみようと思ったり、仏教経典(お経)を習得しようと思ったり、また、読経(または禅や写経など)を始めたりした方もおられるかもしれません。
そんな方々の為、私自身の読経について、ここで再び述べておこうと思います。
以前に私自身の読経について述べましたが、今現在、その時とは用いている経典(お経)や回数が異なっているので、記事を訂正した次第です(以前のその記事は削除しました)。
私の読経のキッカケは辰姫が全ての始まりです。
辰姫の墓を初めて訪れて以来、辰姫の墓参りを度々するようになって1年くらいたったある日、辰姫の墓前で手を合わせている私に副住職様が歩み寄り「いつもこんなによくしてくれて・・・あなたに般若心経を捧げましょう」と言って下さり、私は「では私にではなく辰姫に挙げてあげて下さい」と言い、本堂に招かれ、副住職様が般若心経をお挙げ下さり、その時に「僧や他者にやってもらうのではなく、自分の力で辰姫に喜んでもらえる事(読経)が出来る様になりたい」と思うようになったのが全ての始まりです。
もっとも、辰姫の研究において、仏教を理解しないと解らない事が多くある為、仏教を一から調べ学ばなくてはと思っていたところでもありました。
以後、仏教を調べぬき、その起源であるインドの原始仏教まで学び、経典(お経や陀羅尼)もその現代語訳や主旨を読み込み幾つかのものは暗記し、亡き祖父の唯一の日課が読経だった事もあり、私が行ってしまった生前の祖父への多大な迷惑を思い返し、その罪滅ぼしではありませんが、少ないとはいえ、お経を暗記までしているのだったら、亡き祖父の日課を継承し、辰姫だけでなく、自身の先祖や亡き祖父に読経を捧げていこうと思い始め、読経を日課にし、現在に至っています。
般若心経一つから始め、以前は破地獄偈や延命十句観音経や消災妙吉祥陀羅尼なども唱えていましたが、現在私が日課として読誦している経典(お経)は次のものです。
<”祖父の形見の観音像と千手観音像”に>
・聖観音咒(3回)
・千手観音咒(3回)
・懺悔文(1回)
・般若心経(1回)
・大悲心陀羅尼(1回)
・光明真言(7回)
・回向文(1回)
・聖観音咒(3回)
・千手観音咒(3回)
<”辰姫の戒名”に>
・聖観音咒(3回)
・懺悔文(1回)
・般若心経(1回)
・大悲心陀羅尼(1回)
・光明真言(7回)
・回向文(1回)
・聖観音咒(3回)
<”自宅の仏壇”に>
・聖観音咒(3回)
・懺悔文(1回)
・般若心経(1回)
・大悲心陀羅尼(1回)
・光明真言(7回)
・回向文(1回)
・聖観音咒(3回)
そして、今まで飼ってきたペット・・・というより、かつて一緒に暮らした小動物(家族の一員)達の遺影(猫2頭、犬一頭。あと一頭の猫は生後一年もたたないうちに車にひかれてしまったので写真が無いので、その猫の名前を書いたもの)達に「一緒に暮らしてくれてありがとう。感謝してるよ」という想いを込め読経を捧げています。
<”ペットの遺影”に>
・聖観音咒(3回)
・懺悔文(1回)
・般若心経(1回)
・光明真言(7回)
・回向文(1回)
・聖観音咒(3回)
私ではトータルで30~35分程度の時間がかかっています。これを毎朝夜やっています。
また・・・
<自分の家の墓と辰姫の墓の墓参りには>
・聖観音咒(3回)
・懺悔文(1回)
・般若心経(3回)
・大悲心陀羅尼(5回)
・光明真言(100回)
・回向文(1回)
・聖観音咒(3回)
(墓参りの際は無縁仏様の募郡か供養塔に聖観音咒3回、懺悔文1回、般若心経1回、光明真言21回、回向文1回、聖観音咒3回を捧げたのちに、自身の墓参り若しくは辰姫の墓参りをします)
・・・を墓参りの時のは唱えています。墓参りの際の読経時間は40~45分くらいかかっていますかね。
このほかに時間があったり気が向いた時(主に自分の時間が多く取れた休日とか)に祖父の形見の観音像と千手観音像の前や辰姫の戒名やペット(の遺影)に、墓参りの時と同じ読経を捧げる時もあります。
宗派によって読むお経や作法といったものがありますが、私は無宗教無宗派です。
私の家の墓は曹洞宗(禅宗)の寺にあり、辰姫は天台宗(墓のある東楊寺と貞昌寺は勿論、天台宗)なので、読誦している仏教経典(お経・陀羅尼)は曹洞宗と天台宗で共通し用いられているものです。
以前の仏教エッセイの中で述べていますが、世界の宗教の中で仏教は唯一、信者としてその集団(団体)に属さなくても、個人として信仰してもよいとしている宗教です。
その証拠に、日本では飛鳥時代(奈良時代よりも前。古墳時代の次の時代)より観音信仰や、戦乱・戦国時代時には地蔵信仰が農民などの一般庶民に浸透していました(道端やあちこちにお地蔵様の像が存在するのは、そのなごりなのです)。
その事も以前の仏教エッセイの中で述べています。読経のメリットについても他の記事の中に述べていますので参照下さい。
・・・話を私の読経についてに戻します。
毎朝晩、そして墓参りの読経の際は、たとえ読誦(暗記していて、そらで言えて、意味や主旨も理解している)していても、経典(洋式の本の形をしていてもそのお経がしっかり書かれているもの)を両手で持ち、左手に数珠をかけ、しっかりお経の文を見ながら唱えています。
その理由も以前の仏教エッセイの記事の中で述べていますので参照下さい。
そして、現在では、上記した通り、かつて一緒に暮らした(今は亡き)ペットにも読経を捧げています。
仏教の教えに沿うならば、六道輪廻により動物や人間といった姿形が異なりこの世に生まれても(人間なら人間界、動物なら畜生界に位置付けられる)、肉体を去れば魂という名の一つの存在である事はみな同じです。
だから私はペットたちにも読経を捧げる事にしたのです。
ペット供養がメジャーになった現代。何ら違和感はありません。「たかが動物に・・・」なんて思うのは人間として生まれた”人間達のおごり”と私は思っています。
現に読経もし、供養塔を立て、ペット供養を真剣に執り行う寺院や僧の方々も確かにおられるのですから。
・・・ちなみに、ここで断っておきますが、私は宗教や読経を勧めているのではありません。
私のサイトを見たり、私と同じように自らの意志で仏教に関心を持ち、お経というものに触れ、自身の意志で読経をしている方々に参考までに書かせて頂いたところです。
仏教について述べ、読経をしていながら自身の事は述べないのは、このサイトを見て下さっている方々に失礼だと思ったからです。
私は無宗教無宗派ですが、経典への理解と読経に関しては東楊寺の住職様副住職様もお認め下さり、護摩祈祷の際にも参加させてもらえたり、仏教の対話をして下さったり、教えを頂く事もあります。嬉しい限りです。
今では、読経は私にとって大切な日課であり、そして・・・大好きです!
楽しさや嬉しさを感じるくらいです。
朝の読経は声を出す事でスッキリしますし、読経で生じた功徳が大切な故人や信仰する仏にまで回向文で巡り喜んでくれたかな・・・な~んて思うと、子供のようですが嬉しく思えます。
そして巡らせた功徳は因果応報によって自分に必ず返ってくる。
自分はいつも一緒にいてくれる存在と共にある。それがたとえ目や耳ではとらえられない存在でも。
そんな気分になり、心細さや根拠のない不安も無くなります。
不平不満を貯め込み口にし、酒やギャンブルや飲み会という名の愚痴や悪口の披露会で気を紛らわせるより、よっぽど健全だと私は思っています。
・・・と、まぁ、長々と書いてしまいましたが、私と同じように無宗教無宗派でありながら読経に関心を持ったり、私のこのサイトで読経を始めた方がもしいましたら、参考にしてほしいと思います。
【追記】
度々述べていてクドイようですが、私は宗教を勧めているのではなく、現代に生まれた宗教団体やTVでやっているような超常現象やパワースポットやスピリチュアル云々といったものは一切信じておりません(運というものも信じていません)。全ては因果応報と業(ごう)の成すもの。
あしからず。
仏教エッセイのなかで、幾つかの仏教経典(お経)の事を述べ、また、私自身も読経を日々の日課にしている事は度々述べてきたところです。
そんな私の、このサイトの仏教エッセイの記事を読み、自らも宗派にとらわれる事なく仏教に触れてみようと思ったり、仏教経典(お経)を習得しようと思ったり、また、読経(または禅や写経など)を始めたりした方もおられるかもしれません。
そんな方々の為、私自身の読経について、ここで再び述べておこうと思います。
以前に私自身の読経について述べましたが、今現在、その時とは用いている経典(お経)や回数が異なっているので、記事を訂正した次第です(以前のその記事は削除しました)。
私の読経のキッカケは辰姫が全ての始まりです。
辰姫の墓を初めて訪れて以来、辰姫の墓参りを度々するようになって1年くらいたったある日、辰姫の墓前で手を合わせている私に副住職様が歩み寄り「いつもこんなによくしてくれて・・・あなたに般若心経を捧げましょう」と言って下さり、私は「では私にではなく辰姫に挙げてあげて下さい」と言い、本堂に招かれ、副住職様が般若心経をお挙げ下さり、その時に「僧や他者にやってもらうのではなく、自分の力で辰姫に喜んでもらえる事(読経)が出来る様になりたい」と思うようになったのが全ての始まりです。
もっとも、辰姫の研究において、仏教を理解しないと解らない事が多くある為、仏教を一から調べ学ばなくてはと思っていたところでもありました。
以後、仏教を調べぬき、その起源であるインドの原始仏教まで学び、経典(お経や陀羅尼)もその現代語訳や主旨を読み込み幾つかのものは暗記し、亡き祖父の唯一の日課が読経だった事もあり、私が行ってしまった生前の祖父への多大な迷惑を思い返し、その罪滅ぼしではありませんが、少ないとはいえ、お経を暗記までしているのだったら、亡き祖父の日課を継承し、辰姫だけでなく、自身の先祖や亡き祖父に読経を捧げていこうと思い始め、読経を日課にし、現在に至っています。
般若心経一つから始め、以前は破地獄偈や延命十句観音経や消災妙吉祥陀羅尼なども唱えていましたが、現在私が日課として読誦している経典(お経)は次のものです。
<”祖父の形見の観音像と千手観音像”に>
・聖観音咒(3回)
・千手観音咒(3回)
・懺悔文(1回)
・般若心経(1回)
・大悲心陀羅尼(1回)
・光明真言(7回)
・回向文(1回)
・聖観音咒(3回)
・千手観音咒(3回)
<”辰姫の戒名”に>
・聖観音咒(3回)
・懺悔文(1回)
・般若心経(1回)
・大悲心陀羅尼(1回)
・光明真言(7回)
・回向文(1回)
・聖観音咒(3回)
<”自宅の仏壇”に>
・聖観音咒(3回)
・懺悔文(1回)
・般若心経(1回)
・大悲心陀羅尼(1回)
・光明真言(7回)
・回向文(1回)
・聖観音咒(3回)
そして、今まで飼ってきたペット・・・というより、かつて一緒に暮らした小動物(家族の一員)達の遺影(猫2頭、犬一頭。あと一頭の猫は生後一年もたたないうちに車にひかれてしまったので写真が無いので、その猫の名前を書いたもの)達に「一緒に暮らしてくれてありがとう。感謝してるよ」という想いを込め読経を捧げています。
<”ペットの遺影”に>
・聖観音咒(3回)
・懺悔文(1回)
・般若心経(1回)
・光明真言(7回)
・回向文(1回)
・聖観音咒(3回)
私ではトータルで30~35分程度の時間がかかっています。これを毎朝夜やっています。
また・・・
<自分の家の墓と辰姫の墓の墓参りには>
・聖観音咒(3回)
・懺悔文(1回)
・般若心経(3回)
・大悲心陀羅尼(5回)
・光明真言(100回)
・回向文(1回)
・聖観音咒(3回)
(墓参りの際は無縁仏様の募郡か供養塔に聖観音咒3回、懺悔文1回、般若心経1回、光明真言21回、回向文1回、聖観音咒3回を捧げたのちに、自身の墓参り若しくは辰姫の墓参りをします)
・・・を墓参りの時のは唱えています。墓参りの際の読経時間は40~45分くらいかかっていますかね。
このほかに時間があったり気が向いた時(主に自分の時間が多く取れた休日とか)に祖父の形見の観音像と千手観音像の前や辰姫の戒名やペット(の遺影)に、墓参りの時と同じ読経を捧げる時もあります。
宗派によって読むお経や作法といったものがありますが、私は無宗教無宗派です。
私の家の墓は曹洞宗(禅宗)の寺にあり、辰姫は天台宗(墓のある東楊寺と貞昌寺は勿論、天台宗)なので、読誦している仏教経典(お経・陀羅尼)は曹洞宗と天台宗で共通し用いられているものです。
以前の仏教エッセイの中で述べていますが、世界の宗教の中で仏教は唯一、信者としてその集団(団体)に属さなくても、個人として信仰してもよいとしている宗教です。
その証拠に、日本では飛鳥時代(奈良時代よりも前。古墳時代の次の時代)より観音信仰や、戦乱・戦国時代時には地蔵信仰が農民などの一般庶民に浸透していました(道端やあちこちにお地蔵様の像が存在するのは、そのなごりなのです)。
その事も以前の仏教エッセイの中で述べています。読経のメリットについても他の記事の中に述べていますので参照下さい。
・・・話を私の読経についてに戻します。
毎朝晩、そして墓参りの読経の際は、たとえ読誦(暗記していて、そらで言えて、意味や主旨も理解している)していても、経典(洋式の本の形をしていてもそのお経がしっかり書かれているもの)を両手で持ち、左手に数珠をかけ、しっかりお経の文を見ながら唱えています。
その理由も以前の仏教エッセイの記事の中で述べていますので参照下さい。
そして、現在では、上記した通り、かつて一緒に暮らした(今は亡き)ペットにも読経を捧げています。
仏教の教えに沿うならば、六道輪廻により動物や人間といった姿形が異なりこの世に生まれても(人間なら人間界、動物なら畜生界に位置付けられる)、肉体を去れば魂という名の一つの存在である事はみな同じです。
だから私はペットたちにも読経を捧げる事にしたのです。
ペット供養がメジャーになった現代。何ら違和感はありません。「たかが動物に・・・」なんて思うのは人間として生まれた”人間達のおごり”と私は思っています。
現に読経もし、供養塔を立て、ペット供養を真剣に執り行う寺院や僧の方々も確かにおられるのですから。
・・・ちなみに、ここで断っておきますが、私は宗教や読経を勧めているのではありません。
私のサイトを見たり、私と同じように自らの意志で仏教に関心を持ち、お経というものに触れ、自身の意志で読経をしている方々に参考までに書かせて頂いたところです。
仏教について述べ、読経をしていながら自身の事は述べないのは、このサイトを見て下さっている方々に失礼だと思ったからです。
私は無宗教無宗派ですが、経典への理解と読経に関しては東楊寺の住職様副住職様もお認め下さり、護摩祈祷の際にも参加させてもらえたり、仏教の対話をして下さったり、教えを頂く事もあります。嬉しい限りです。
今では、読経は私にとって大切な日課であり、そして・・・大好きです!
楽しさや嬉しさを感じるくらいです。
朝の読経は声を出す事でスッキリしますし、読経で生じた功徳が大切な故人や信仰する仏にまで回向文で巡り喜んでくれたかな・・・な~んて思うと、子供のようですが嬉しく思えます。
そして巡らせた功徳は因果応報によって自分に必ず返ってくる。
自分はいつも一緒にいてくれる存在と共にある。それがたとえ目や耳ではとらえられない存在でも。
そんな気分になり、心細さや根拠のない不安も無くなります。
不平不満を貯め込み口にし、酒やギャンブルや飲み会という名の愚痴や悪口の披露会で気を紛らわせるより、よっぽど健全だと私は思っています。
・・・と、まぁ、長々と書いてしまいましたが、私と同じように無宗教無宗派でありながら読経に関心を持ったり、私のこのサイトで読経を始めた方がもしいましたら、参考にしてほしいと思います。
【追記】
度々述べていてクドイようですが、私は宗教を勧めているのではなく、現代に生まれた宗教団体やTVでやっているような超常現象やパワースポットやスピリチュアル云々といったものは一切信じておりません(運というものも信じていません)。全ては因果応報と業(ごう)の成すもの。
あしからず。