さて、今回の仏教のエッセイは仏教でいうところの”六道”についてのお話です。
仏教では、私達人間の世界の他に六つの世界があるとし、業(自らの行い、因果応報)を積み重ねながらその六つの世界を輪廻転生し、その究極(悟りを開く、苦が無い)として六つの世界の上、つまり仏の世界(浄土)にたどり着くとされています。
・・・すなわち”六道輪廻”です。
その六つの世界”六道”とは・・・
天道: 神・天人の世界。思い通りになるが最後には死を逃れられない世界。
人道: 今の私達の人間界。喜怒哀楽の為に苦しむ世界。
修羅道: 争いが絶えない、常に争う世界。
畜生道: 生きていく為の欲求(食・睡眠・性)という本能だけの世界。信仰の無い世界。愚痴(愚か)な世界。
餓鬼道: 満たされる、足るを知るという事を知らない、足るという事が無い世界。
地獄道: 逃れられない苦しみ、苦しみのみの世界。
・・・の事です。
言葉は悪いですが、”マシ”な世界の順に並べています。仏教の教えでもこの順です。
この六つの世界を生きたり死んだりを繰り返し、業(善い行いと悪い行い)を積み重ね、次の生まれ変わる世界が決まっていくというのです。
ちなみに下の三つの世界、”畜生””餓鬼””地獄”を”三悪道”といいます。
修羅は常に争いが絶えない世界ですが、まだ信仰や自分の意志のある世界なので三悪道には属しないようです。
・・・ですが、よくよく見るとこの六道、まさに今生きているこの世界そのものと同じに見えないですか?
思い通りに出来る力を持っていても死から逃れられはしません。
日々の喜怒哀楽。
どっちが上でどっちが下や、お前が悪いとか、そんな事でいがみ合い争いが絶えない。
食う寝る。そして性欲の為だけの思考や行い。
自分が恵まれている事に気付かず、常に満足を知らず、欲が絶えない。
言葉に出来ない程の苦しみに支配される。
・・・まさに人それぞれの人生や人柄の六分類としたような感じにすら見えないでしょうか?
そう、争いの悲惨な様子を”修羅場”という様に、餓鬼が飢えた末の人間の姿として絵として描かれているように、凄まじい苦しみを地獄と表現する様に、私達の日常にもこの世界は存在しているのです。
この六つの世界の救い主を仏教では仏(菩薩や明王)と人間のような姿として人々が信仰し易いようにし(仏とは本来姿かたちを固定していないと言われていますが、それでは人は信仰の対象を明確に意識できないからとされています。本来の仏の姿でなくても仏を念じる事になるので功徳が生じるとされているのです。これは歴史上の名僧達も言っている事です。)、苦しみから救われより善くある為、またその究極として苦の存在しない境地に達する、すなわち悟りの為の教えが仏教の教え(経典・お経)であり、その経典(お経)は、それぞれの仏(菩薩や明王、究極は如来)が説く教えであり、仏の物語や経緯、教え、そして我々の修行法(六波羅蜜、八正道、読経など)が説かれているのです。
そう、ただひたすらに神仏にお願い事のみをする事や、お供え物や膨大な金額のお布施の強要やセミナーの参加や、心霊現象や、どこに行けは運が良くなる云々など、仏教の教え(経典・お経)の中には何一つ説かれて(書かれて)いないのです。
いま私たちの生きている世界や日常ですら、この六道の世界や六道いずれかの存在のような人を垣間見る事が日常茶飯事なのに、他界した後も、自分の積み重ねてきた行い(業)によって、更にその要素が顕著な世界に行かされると思ってしまうと、日々の自分の行いに注意が行きますね。
・・・でも、それも仏教の”より善くある為”の指針であると私はとらえますし、そうだと思います。
世間ではスピリチュアルアイテムやスピリチュアルアドバイス、パワースポット云々と、様々な心霊や開運などの方法が出回っているようですが、そんな事を意識したり手にしなくても、この六道は一般にでも心当たりがあったり見られますし、その為(より善くある為)の方法として、やはり因果応報を意識し、日々の行いを善いものに変えていく(他の仏教記事を参照下さい)行動は、まさに誰の為でもなく、自分自身の為であると言えますし、また現実的だと言えますね。
仏教では、私達人間の世界の他に六つの世界があるとし、業(自らの行い、因果応報)を積み重ねながらその六つの世界を輪廻転生し、その究極(悟りを開く、苦が無い)として六つの世界の上、つまり仏の世界(浄土)にたどり着くとされています。
・・・すなわち”六道輪廻”です。
その六つの世界”六道”とは・・・
天道: 神・天人の世界。思い通りになるが最後には死を逃れられない世界。
人道: 今の私達の人間界。喜怒哀楽の為に苦しむ世界。
修羅道: 争いが絶えない、常に争う世界。
畜生道: 生きていく為の欲求(食・睡眠・性)という本能だけの世界。信仰の無い世界。愚痴(愚か)な世界。
餓鬼道: 満たされる、足るを知るという事を知らない、足るという事が無い世界。
地獄道: 逃れられない苦しみ、苦しみのみの世界。
・・・の事です。
言葉は悪いですが、”マシ”な世界の順に並べています。仏教の教えでもこの順です。
この六つの世界を生きたり死んだりを繰り返し、業(善い行いと悪い行い)を積み重ね、次の生まれ変わる世界が決まっていくというのです。
ちなみに下の三つの世界、”畜生””餓鬼””地獄”を”三悪道”といいます。
修羅は常に争いが絶えない世界ですが、まだ信仰や自分の意志のある世界なので三悪道には属しないようです。
・・・ですが、よくよく見るとこの六道、まさに今生きているこの世界そのものと同じに見えないですか?
思い通りに出来る力を持っていても死から逃れられはしません。
日々の喜怒哀楽。
どっちが上でどっちが下や、お前が悪いとか、そんな事でいがみ合い争いが絶えない。
食う寝る。そして性欲の為だけの思考や行い。
自分が恵まれている事に気付かず、常に満足を知らず、欲が絶えない。
言葉に出来ない程の苦しみに支配される。
・・・まさに人それぞれの人生や人柄の六分類としたような感じにすら見えないでしょうか?
そう、争いの悲惨な様子を”修羅場”という様に、餓鬼が飢えた末の人間の姿として絵として描かれているように、凄まじい苦しみを地獄と表現する様に、私達の日常にもこの世界は存在しているのです。
この六つの世界の救い主を仏教では仏(菩薩や明王)と人間のような姿として人々が信仰し易いようにし(仏とは本来姿かたちを固定していないと言われていますが、それでは人は信仰の対象を明確に意識できないからとされています。本来の仏の姿でなくても仏を念じる事になるので功徳が生じるとされているのです。これは歴史上の名僧達も言っている事です。)、苦しみから救われより善くある為、またその究極として苦の存在しない境地に達する、すなわち悟りの為の教えが仏教の教え(経典・お経)であり、その経典(お経)は、それぞれの仏(菩薩や明王、究極は如来)が説く教えであり、仏の物語や経緯、教え、そして我々の修行法(六波羅蜜、八正道、読経など)が説かれているのです。
そう、ただひたすらに神仏にお願い事のみをする事や、お供え物や膨大な金額のお布施の強要やセミナーの参加や、心霊現象や、どこに行けは運が良くなる云々など、仏教の教え(経典・お経)の中には何一つ説かれて(書かれて)いないのです。
いま私たちの生きている世界や日常ですら、この六道の世界や六道いずれかの存在のような人を垣間見る事が日常茶飯事なのに、他界した後も、自分の積み重ねてきた行い(業)によって、更にその要素が顕著な世界に行かされると思ってしまうと、日々の自分の行いに注意が行きますね。
・・・でも、それも仏教の”より善くある為”の指針であると私はとらえますし、そうだと思います。
世間ではスピリチュアルアイテムやスピリチュアルアドバイス、パワースポット云々と、様々な心霊や開運などの方法が出回っているようですが、そんな事を意識したり手にしなくても、この六道は一般にでも心当たりがあったり見られますし、その為(より善くある為)の方法として、やはり因果応報を意識し、日々の行いを善いものに変えていく(他の仏教記事を参照下さい)行動は、まさに誰の為でもなく、自分自身の為であると言えますし、また現実的だと言えますね。