今回の記事は前回のエッセイの仏教記事”仏教でいうところの”修業”は、他者(生きてる死んでる問わず)から見て善い行いの事です その1”の続きとなる記事です。
仏教の言うところの修業が”善い行い(親切な行為)”である事、それら”六波羅蜜”と言われるものである事は前回の記事で述べています。ご参照下さい。
その仏教でいうところの修行、すなわち”善い行い”は、仏教の中で幾つかの違う形でも述べられています。
八正道、四念住、四正勤、五力、・・・と言われるものです。
八正道とは・・・
正しいものの見方: 苦の原因を明らかにし、原因と結果の道理を信じ、間違った見方をしない。
正しいものの考え方: 欲にふけらず、貪らず、怒らず、損なう心を持たない。
正しい言葉: 偽り、むだ口、悪口、二枚舌を言わない。
正しい行い: 殺生、盗み、よこしまな愛欲をしない。
正しい生活: 人として恥ずかしい事はしない。
正しい努力: 正しい事に向かっての努力を続ける。
正しい念い(おもい): 正しく思慮深い心を持つ。
正しい心の統一: 間違った目的を持たず、心を静め、心を一つにする。
四念住とは・・・
自分の身は今汚れている。それに執着すべきではないと見る。
どんな感じを抱いてもそれは苦しみのもとだと見る。
自分の心は絶えずうつり変わるものと見る。
全てのものは原因と条件で成り立っているから、変わらないものなどないと見る。
四正勤とは・・・
これから起ころうとする悪は起こる前に防ぐ。
すでに起こった悪は断ち切る。
これから起ころうとする善は起こるよう仕向ける。
すでに起こった善はもっと大きくなるよう育てる。
五力とは・・・
信じる。
努める。
思慮深い心を保つ。
心を統一する。
明らかな智慧を持つ。
さて、ここまで読まれた方はもうお気づきになられたかもしれませんが、八正道、四念住、四正勤、五力、そして前回の記事で述べた六波羅蜜・・・これらは全て共通していて、根本は同様です。
すなわち・・・
般若心経が説いている”空の教え”、つまり”生物、物、出来事、心・・・万物全て、変化しないものは無い”という事と、”因果応報”を理解して、人として曲がった事をせずに親切な行いをしていく。
・・・という事なんです。
その事が仏教の言うところの修行であり、功徳を積む事(=善の積み重ね)であり、またそれらは、あのお釈迦様は生前行っていた修行の一つであり、菩薩や明王といった仏が今も行っている修行の一つだと考えると凄い事ですよね。
だって、身近な親切な行いは、生前のお釈迦様や観音様や有名な不動明王等の仏様と同じ修行、同じ事をしている事になるのですから。
そう考えれば、自分という存在が粗末で存在価値の無い存在だなんて思えませんよね?
そう、些細な事であれ善い事をしようと努めれば、誰しもが尊い素敵な存在なんだよって言う事を気付かされるじゃないですか!
現代に生まれた宗教の中には御利益や功徳を積む事として修行やお布施と称し、多額の金額を要する支払いやお説教を強要したり薦める団体もあるようですが、いかがなものでしょうかね?
また、般若心経ですら「全てを無にする」や「無に返る為の滅びの呪文のよう」なんていう人間もいるようです。
・・・それらの人々がちゃんと仏教の経典(お経)の現代語訳を熟読し、どのように仏教と密教を学んだのか、何をもって学んだのか疑問ですね。
あの高野山に祀られている空海ですら「般若心経秘鍵」という般若心経の注釈書、いわば研究レポートを書き、その中で「般若心経は意味は解らなくても口にするだけでも功徳を積む事(=善い行いの積み重ね)になる」と言ってるくらいなのに(般若心経についての記事を参照下さい)。
そう、形式ばった団体や協会うんぬんに属す事無く、個々自分自身の事として、誰でも、今すぐでも、日常の中で仏教の修業(功徳を積む事)というものは出来るんです。
仏教の修行(功徳を積む)の一つとは、親切な行為、つまり善い行いの積み重ねであり、生前のお釈迦様や観音様やお不動様といった仏と同じ修行や行いをする事でもあり、お釈迦様や観音様やお不動様達に近づく行為でもあり、その究極は自分自身が仏(死ぬ事ではなく全ての苦とは無縁となる”悟りを開く”という事)になるという事なんです。
日頃の些細な親切な行為、写経、読経、禅(正しい瞑想)、など・・・
私達でも日頃出来て、趣味や日課にも出来そうなものが沢山ありそうですね。
仏教の言うところの修業が”善い行い(親切な行為)”である事、それら”六波羅蜜”と言われるものである事は前回の記事で述べています。ご参照下さい。
その仏教でいうところの修行、すなわち”善い行い”は、仏教の中で幾つかの違う形でも述べられています。
八正道、四念住、四正勤、五力、・・・と言われるものです。
八正道とは・・・
正しいものの見方: 苦の原因を明らかにし、原因と結果の道理を信じ、間違った見方をしない。
正しいものの考え方: 欲にふけらず、貪らず、怒らず、損なう心を持たない。
正しい言葉: 偽り、むだ口、悪口、二枚舌を言わない。
正しい行い: 殺生、盗み、よこしまな愛欲をしない。
正しい生活: 人として恥ずかしい事はしない。
正しい努力: 正しい事に向かっての努力を続ける。
正しい念い(おもい): 正しく思慮深い心を持つ。
正しい心の統一: 間違った目的を持たず、心を静め、心を一つにする。
四念住とは・・・
自分の身は今汚れている。それに執着すべきではないと見る。
どんな感じを抱いてもそれは苦しみのもとだと見る。
自分の心は絶えずうつり変わるものと見る。
全てのものは原因と条件で成り立っているから、変わらないものなどないと見る。
四正勤とは・・・
これから起ころうとする悪は起こる前に防ぐ。
すでに起こった悪は断ち切る。
これから起ころうとする善は起こるよう仕向ける。
すでに起こった善はもっと大きくなるよう育てる。
五力とは・・・
信じる。
努める。
思慮深い心を保つ。
心を統一する。
明らかな智慧を持つ。
さて、ここまで読まれた方はもうお気づきになられたかもしれませんが、八正道、四念住、四正勤、五力、そして前回の記事で述べた六波羅蜜・・・これらは全て共通していて、根本は同様です。
すなわち・・・
般若心経が説いている”空の教え”、つまり”生物、物、出来事、心・・・万物全て、変化しないものは無い”という事と、”因果応報”を理解して、人として曲がった事をせずに親切な行いをしていく。
・・・という事なんです。
その事が仏教の言うところの修行であり、功徳を積む事(=善の積み重ね)であり、またそれらは、あのお釈迦様は生前行っていた修行の一つであり、菩薩や明王といった仏が今も行っている修行の一つだと考えると凄い事ですよね。
だって、身近な親切な行いは、生前のお釈迦様や観音様や有名な不動明王等の仏様と同じ修行、同じ事をしている事になるのですから。
そう考えれば、自分という存在が粗末で存在価値の無い存在だなんて思えませんよね?
そう、些細な事であれ善い事をしようと努めれば、誰しもが尊い素敵な存在なんだよって言う事を気付かされるじゃないですか!
現代に生まれた宗教の中には御利益や功徳を積む事として修行やお布施と称し、多額の金額を要する支払いやお説教を強要したり薦める団体もあるようですが、いかがなものでしょうかね?
また、般若心経ですら「全てを無にする」や「無に返る為の滅びの呪文のよう」なんていう人間もいるようです。
・・・それらの人々がちゃんと仏教の経典(お経)の現代語訳を熟読し、どのように仏教と密教を学んだのか、何をもって学んだのか疑問ですね。
あの高野山に祀られている空海ですら「般若心経秘鍵」という般若心経の注釈書、いわば研究レポートを書き、その中で「般若心経は意味は解らなくても口にするだけでも功徳を積む事(=善い行いの積み重ね)になる」と言ってるくらいなのに(般若心経についての記事を参照下さい)。
そう、形式ばった団体や協会うんぬんに属す事無く、個々自分自身の事として、誰でも、今すぐでも、日常の中で仏教の修業(功徳を積む事)というものは出来るんです。
仏教の修行(功徳を積む)の一つとは、親切な行為、つまり善い行いの積み重ねであり、生前のお釈迦様や観音様やお不動様といった仏と同じ修行や行いをする事でもあり、お釈迦様や観音様やお不動様達に近づく行為でもあり、その究極は自分自身が仏(死ぬ事ではなく全ての苦とは無縁となる”悟りを開く”という事)になるという事なんです。
日頃の些細な親切な行為、写経、読経、禅(正しい瞑想)、など・・・
私達でも日頃出来て、趣味や日課にも出来そうなものが沢山ありそうですね。