さて、幾つかの経典(お経)について、当ブログのカテゴリー”エッセイ (仏教・密教・信仰)”の記事の中で、経典(お経)や読経の本来の主旨や意味を述べてきました。
今回は”懺悔文”について書こうと思います。
”懺悔文”は”さんげもん”と読みます。”ざんげ”はキリスト教の言葉です。”懺悔”の本来の読みは”さんげ”です。
ですので、”懺悔文”は”さんげもん”と読みます。
今更ながら実は、読経や経典(お経)について書くのであれば、この”懺悔文”を一番初めに書くべきだったのではないかと思っています。・・・すみません。
”懺悔文”は殆ど全ての仏教宗派で読まれているお経(というより文章)です。
しかも、葬儀や法事といった読経の際に一番初めに必ずと言っていいほど読まれるものです。
では、その懺悔文とは何なのか。
”懺悔文”はその名の通り、自らを懺悔する言葉です。
自分が今までしてしまった様々な罪や悪い行いを御仏の前で懺悔する言葉です。
罪や間違いを犯さず社会に出た人間などいるはずがありません。
解っていながらしてしまった悪い行い。自分では気付かないうちに他者を傷つけてしまったり・・・等々。
更には仏教の教えでは、今の自分に生まれてくる以前に犯した罪や悪い行いも背負い続けて今を生きているとすらあります。
それら、自分のしてしまった、自分でも気づかないで行ってしまっていたものも含め、悪い行いを全て御仏の前で認め、悔い改めますといった宣言が”懺悔文”です。
しかし、だからといって「自分は悪い存在なんだ」「私は悪しき存在です」というのではありません。
しっかりと、そして素直に罪を認め、悔い、自分も皆も良くなる為の”教え(経典)”をこれからしっかり口にして正しくあろう。
その事(気持ち)が自分を清める事になる。
そして、清らかな自分で御仏の教え(経典・お経。陀羅尼なら仏の言葉そのもの)を口にする。
その為のお経(文)が”懺悔文”なんです。
自分のしてしまった悪い行いに目もくれずに、やみくもに塩を撒き散らしたり、あちこちにお札を貼ったり、パワースポットなる場所に行って深呼吸するだけなどといった行為とは雲泥の差ですね。
まずは自分を見て、そして、自身の非を認め(しかもお釈迦様や観音様など、人々を救おうとする御仏に対してになります)、それを悔い改め、正しい一歩を踏み出そうとする宣言。
その事で御仏(お釈迦様や観音様など多くの如来・菩薩・明王達)も初めて心に住まわれるようになるというのです。
考えれば私たち人間社会でもそうですよね。
日頃は自分の事を棚に上げ、自分の間違いはお構いなし。でも困ったら「助けて~」なんていう人に誰が救いの手を差し伸べようとするでしょう?
自分の間違いをしっかり認めて、それを悔い、態度や行動を改めようとする人には「しっかり反省しているようだし・・・なら手を貸してもいいかな・・・」な~んて思うものではないでしょうか?
話を懺悔文そのものに戻します。
懺悔文は上記した通り、葬儀や法事等の読経の際に必ず一番最初に読まれます。
その意味は上記した通りです。
これらをしっかり意識した目で見れば、懺悔文をしっかり理解し口にしたうえで般若心経などのお経を口にするのと、懺悔文を知らずに口にせず般若心経などのお経を読むのでは・・・その清らかさと意味合いは比較になりませんね。
辰姫の墓参りの際に、その寺の副住職様も「懺悔文は絶対欠かせません。欠かせませんね~」とおっしゃっていました。
実のところ、かくいう私も懺悔文を覚えたのは般若心経や大悲心陀羅尼や他の経典を覚えた後でした。
それまで何千回と般若心経や大悲心陀羅尼などを読経していましたが・・・懺悔文を知ってからは、墓前や観音像の前だろうが空で口にする時(思い付きや気分で何も見ずに暗唱する際でも)だろうが、とにもかくにも、どんな経典(お経)をたとえ一回の読経でも、その際には必ず懺悔文を口にしてからお経を口にしています(終わりに必ず回向文も口にしています)。
ちなみに懺悔文は回向文と同様に非常に短い文面で、10~15秒程度(じっくり口にしても20秒くらい)あればしっかり読めます。
・・・ここまで書けば、私が冒頭で「懺悔文は一番初めに書くべきでした」といった意味がお解り頂けたと思います。
”懺悔文”。
それは一番最初に覚えるべき、そして必ず口にすべき経典(お経・文)なのではないかと、私は思っています。
今回は”懺悔文”について書こうと思います。
”懺悔文”は”さんげもん”と読みます。”ざんげ”はキリスト教の言葉です。”懺悔”の本来の読みは”さんげ”です。
ですので、”懺悔文”は”さんげもん”と読みます。
今更ながら実は、読経や経典(お経)について書くのであれば、この”懺悔文”を一番初めに書くべきだったのではないかと思っています。・・・すみません。
”懺悔文”は殆ど全ての仏教宗派で読まれているお経(というより文章)です。
しかも、葬儀や法事といった読経の際に一番初めに必ずと言っていいほど読まれるものです。
では、その懺悔文とは何なのか。
”懺悔文”はその名の通り、自らを懺悔する言葉です。
自分が今までしてしまった様々な罪や悪い行いを御仏の前で懺悔する言葉です。
罪や間違いを犯さず社会に出た人間などいるはずがありません。
解っていながらしてしまった悪い行い。自分では気付かないうちに他者を傷つけてしまったり・・・等々。
更には仏教の教えでは、今の自分に生まれてくる以前に犯した罪や悪い行いも背負い続けて今を生きているとすらあります。
それら、自分のしてしまった、自分でも気づかないで行ってしまっていたものも含め、悪い行いを全て御仏の前で認め、悔い改めますといった宣言が”懺悔文”です。
しかし、だからといって「自分は悪い存在なんだ」「私は悪しき存在です」というのではありません。
しっかりと、そして素直に罪を認め、悔い、自分も皆も良くなる為の”教え(経典)”をこれからしっかり口にして正しくあろう。
その事(気持ち)が自分を清める事になる。
そして、清らかな自分で御仏の教え(経典・お経。陀羅尼なら仏の言葉そのもの)を口にする。
その為のお経(文)が”懺悔文”なんです。
自分のしてしまった悪い行いに目もくれずに、やみくもに塩を撒き散らしたり、あちこちにお札を貼ったり、パワースポットなる場所に行って深呼吸するだけなどといった行為とは雲泥の差ですね。
まずは自分を見て、そして、自身の非を認め(しかもお釈迦様や観音様など、人々を救おうとする御仏に対してになります)、それを悔い改め、正しい一歩を踏み出そうとする宣言。
その事で御仏(お釈迦様や観音様など多くの如来・菩薩・明王達)も初めて心に住まわれるようになるというのです。
考えれば私たち人間社会でもそうですよね。
日頃は自分の事を棚に上げ、自分の間違いはお構いなし。でも困ったら「助けて~」なんていう人に誰が救いの手を差し伸べようとするでしょう?
自分の間違いをしっかり認めて、それを悔い、態度や行動を改めようとする人には「しっかり反省しているようだし・・・なら手を貸してもいいかな・・・」な~んて思うものではないでしょうか?
話を懺悔文そのものに戻します。
懺悔文は上記した通り、葬儀や法事等の読経の際に必ず一番最初に読まれます。
その意味は上記した通りです。
これらをしっかり意識した目で見れば、懺悔文をしっかり理解し口にしたうえで般若心経などのお経を口にするのと、懺悔文を知らずに口にせず般若心経などのお経を読むのでは・・・その清らかさと意味合いは比較になりませんね。
辰姫の墓参りの際に、その寺の副住職様も「懺悔文は絶対欠かせません。欠かせませんね~」とおっしゃっていました。
実のところ、かくいう私も懺悔文を覚えたのは般若心経や大悲心陀羅尼や他の経典を覚えた後でした。
それまで何千回と般若心経や大悲心陀羅尼などを読経していましたが・・・懺悔文を知ってからは、墓前や観音像の前だろうが空で口にする時(思い付きや気分で何も見ずに暗唱する際でも)だろうが、とにもかくにも、どんな経典(お経)をたとえ一回の読経でも、その際には必ず懺悔文を口にしてからお経を口にしています(終わりに必ず回向文も口にしています)。
ちなみに懺悔文は回向文と同様に非常に短い文面で、10~15秒程度(じっくり口にしても20秒くらい)あればしっかり読めます。
・・・ここまで書けば、私が冒頭で「懺悔文は一番初めに書くべきでした」といった意味がお解り頂けたと思います。
”懺悔文”。
それは一番最初に覚えるべき、そして必ず口にすべき経典(お経・文)なのではないかと、私は思っています。