今日は私の辰姫への思い入れを書こうと思います。
・・・まぁ、歴史好きの変わったオジサンの戯言と思って読んで頂いて構いません(笑)。
私は石田三成を尊敬していました(今でもです)。
石田三成で最もゆかりのある地は滋賀県でしょう。ですが私の住まいは埼玉県。しかも医療従事者としての生業を持つ私は生活が不規則。なかなか足を運べる条件ではありません。
しかし、自分の住む関東で石田三成ゆかりの地は無いものかと必死に調べました。
埼玉には忍城がありますが、忍城は石田三成の評価に誤解を招く事の多い城です(忍城水攻めは三成の発案でもなければ落城失敗という結果は後世の誤解と作り話に過ぎません)。ゆえに忍城以外の三成ゆかりの場所を探しぬきました。
その結果、群馬県に三成の娘の墓があるという事がわかったのです。
尊敬する歴史上人物の娘の墓なら一度は行ってみようと思ったのです。
その墓こそ・・・辰姫の墓だったのです。
始めて辰姫の墓を訪れた時は、衝撃を受けました。
自分の先祖の墓よりもずっと小さく、そして痛んだ墓石。そして辰姫を紹介する看板も案内も無し。寺にある解説文に”石田三成の娘”という一文がありますが、それも誰かの悪戯で白く塗り消されてしまっている状態。
・・・不憫でした。
「なんで歴史に名前が載るくらいの人物の娘が・・・しかもそれが自分の尊敬する人物の娘が・・・こんな扱いなのか・・・」と。
自宅に戻り、辰姫を調べましたが・・・文章で数行の人生。現代の歴史書や資料も皆無・・・。しかもパソコンで歴史好きの人間のコメントを見てみるとその中には「流されるだけの人生」などといった心無いコメントが・・・。
いてもたってもいられずに数日後に再び辰姫の墓を訪れました。
「・・・この人(辰姫)は400年間もこんな扱いを受けていたのか・・・。何も悪いことなんてしてないのに・・・」
そう思うと涙が止まりませんでした。自宅への帰り道もずっと涙が止まりませんでした。
「なんで歴史家の先生って言われている人はこの人(辰姫)を見てあげようとしないのか?なぜ調べない?史料がないからか?それとも姫君だからか?」
そして決めたのです。
「私がこの人(辰姫)を知り、後世に残し伝えよう。多くの人に辰姫を知ってもらおう。自分にできる限りのことをしよう」と。
私には歴史専門の肩書や学歴はありません。
ですが、幼いころからの歴史好きが影響し、20~30歳ごろ、私は明智光秀に非常に関心があり独学で明智光秀を調べた事がありました。断念こそしたものの、史料の使い方や歴史書への馴染みや使い方は少々心得があったつもりです。
この可哀そう過ぎる姫君のため、この姫君を研究し、どんなに時間がかかろうとこの姫君の生涯を解明できる限り解明し、伝えていこう。
・・・私の辰姫研究の始まりです。
今から2年4か月前の事です。
今もそうですが、史料も資料も皆無の辰姫の解明は本当に苦難の連続です。
調査や取材の際には、快く応じて下される方々がおられる一方、門前払いや罵声や冷やかしを浴びる事もありました。
身近な親しい人々の中にも冷やかしや小馬鹿にされるような言葉を受けた事も多々あります。ブログコメントにキチガイ的のように書かれた事もありました(即、削除しましたが)。
落ち込みました。
しかし、400年間それ以上の扱いを受けてきた辰姫とその墓石を思うと辞めようと思う気は全く起きませんでした。それどころか「どんな扱いを受けても、どんなに時間がかかっても・・・」と研究継続の意思と士気が上がったものです(今も)。
初めて立つ姫の墓石を訪れた時から、毎月一度は必ず辰姫の墓石に訪れています。
多い時は月に4~5回は訪れた時もあります。
そんなある日、辰姫の墓石のあるお寺(東楊寺)の住職様(現在たしか94~95歳)が「こんなに熱心に辰姫に接する人はいまだかつていませんでしたよ」と言って下さり、副住職様も「あなたにお経をささげてあげましょう。般若心経を捧げてあげましょう」と言って下されました。
私は「私にお経を捧げて下さるのであれば、私はいいのでこの辰姫に捧げてあげて下さい」とお願いをしました。
その時私は思ったのです。
「僧の方に頼るのではなく、私自身でこの人(辰姫)が喜んでくれる事をしてあげたい」と。
・・・私が経典と仏教を調べ、経典のいくつかを読経・読誦するキッカケとなった瞬間、出来事です。
それゆえ、私は今でも「私の般若心経は辰姫が授けてくれたもの。般若心経は私と辰姫の絆の証」と思っています。
今は亡き私の祖父は存命中は毎日仏壇に読経を捧げていました。しかし祖父が亡くなった後、度胸をする人間は我が家には誰もいませんでした。
私は祖父をい今でも尊敬しています。
・・・祖父の日課を継承すれば祖父も喜んでくれるかな・・・。
生きている人間を喜ばせる手段はいくらでもある。
生きている人間だけではなく今は亡き故人たちに喜んでもらえる手段の一つ。
・・・それが今の私の日課、読経です。
そして仏教を調べた事は、辰姫を研究する上で幾つもの発見や糸口につながっています。
私の読経する経典・陀羅尼は今では「懺悔文、大悲新陀羅尼、聖観音咒、光明真言、般若心経、回向門」に増え、まだまだ経典を覚えるつもりでいます(他の経典や陀羅尼も幾つかは知っていますが)。
そんな経緯を経て、今、私は「辰姫研究」と「読経」を生きがい・・・いや、使命と思ってやっています。
こんな42歳のオジサンは、さぞ珍しいと思います。
「変わってる」「変人」と言われても否定しません。
しかしそれが私です。
それに・・・
私はどう思われてもかまいません。
辰姫の事を一人でも多くの方々に知ってもらえれば大満足です。
今現在、生業に追われる日々を送っていますが、辰姫研究は地道に進めています。
研究記事がなかなか書けていませんが、当然、記事を書き続けていきます。
多くの人々が辰姫を知ってくれる事を、そして400年間、歴史の闇に覆われ続けてきた辰姫が歴史の陽の目を沢山浴びる事ができる事を願っています。
・・・まぁ、歴史好きの変わったオジサンの戯言と思って読んで頂いて構いません(笑)。
私は石田三成を尊敬していました(今でもです)。
石田三成で最もゆかりのある地は滋賀県でしょう。ですが私の住まいは埼玉県。しかも医療従事者としての生業を持つ私は生活が不規則。なかなか足を運べる条件ではありません。
しかし、自分の住む関東で石田三成ゆかりの地は無いものかと必死に調べました。
埼玉には忍城がありますが、忍城は石田三成の評価に誤解を招く事の多い城です(忍城水攻めは三成の発案でもなければ落城失敗という結果は後世の誤解と作り話に過ぎません)。ゆえに忍城以外の三成ゆかりの場所を探しぬきました。
その結果、群馬県に三成の娘の墓があるという事がわかったのです。
尊敬する歴史上人物の娘の墓なら一度は行ってみようと思ったのです。
その墓こそ・・・辰姫の墓だったのです。
始めて辰姫の墓を訪れた時は、衝撃を受けました。
自分の先祖の墓よりもずっと小さく、そして痛んだ墓石。そして辰姫を紹介する看板も案内も無し。寺にある解説文に”石田三成の娘”という一文がありますが、それも誰かの悪戯で白く塗り消されてしまっている状態。
・・・不憫でした。
「なんで歴史に名前が載るくらいの人物の娘が・・・しかもそれが自分の尊敬する人物の娘が・・・こんな扱いなのか・・・」と。
自宅に戻り、辰姫を調べましたが・・・文章で数行の人生。現代の歴史書や資料も皆無・・・。しかもパソコンで歴史好きの人間のコメントを見てみるとその中には「流されるだけの人生」などといった心無いコメントが・・・。
いてもたってもいられずに数日後に再び辰姫の墓を訪れました。
「・・・この人(辰姫)は400年間もこんな扱いを受けていたのか・・・。何も悪いことなんてしてないのに・・・」
そう思うと涙が止まりませんでした。自宅への帰り道もずっと涙が止まりませんでした。
「なんで歴史家の先生って言われている人はこの人(辰姫)を見てあげようとしないのか?なぜ調べない?史料がないからか?それとも姫君だからか?」
そして決めたのです。
「私がこの人(辰姫)を知り、後世に残し伝えよう。多くの人に辰姫を知ってもらおう。自分にできる限りのことをしよう」と。
私には歴史専門の肩書や学歴はありません。
ですが、幼いころからの歴史好きが影響し、20~30歳ごろ、私は明智光秀に非常に関心があり独学で明智光秀を調べた事がありました。断念こそしたものの、史料の使い方や歴史書への馴染みや使い方は少々心得があったつもりです。
この可哀そう過ぎる姫君のため、この姫君を研究し、どんなに時間がかかろうとこの姫君の生涯を解明できる限り解明し、伝えていこう。
・・・私の辰姫研究の始まりです。
今から2年4か月前の事です。
今もそうですが、史料も資料も皆無の辰姫の解明は本当に苦難の連続です。
調査や取材の際には、快く応じて下される方々がおられる一方、門前払いや罵声や冷やかしを浴びる事もありました。
身近な親しい人々の中にも冷やかしや小馬鹿にされるような言葉を受けた事も多々あります。ブログコメントにキチガイ的のように書かれた事もありました(即、削除しましたが)。
落ち込みました。
しかし、400年間それ以上の扱いを受けてきた辰姫とその墓石を思うと辞めようと思う気は全く起きませんでした。それどころか「どんな扱いを受けても、どんなに時間がかかっても・・・」と研究継続の意思と士気が上がったものです(今も)。
初めて立つ姫の墓石を訪れた時から、毎月一度は必ず辰姫の墓石に訪れています。
多い時は月に4~5回は訪れた時もあります。
そんなある日、辰姫の墓石のあるお寺(東楊寺)の住職様(現在たしか94~95歳)が「こんなに熱心に辰姫に接する人はいまだかつていませんでしたよ」と言って下さり、副住職様も「あなたにお経をささげてあげましょう。般若心経を捧げてあげましょう」と言って下されました。
私は「私にお経を捧げて下さるのであれば、私はいいのでこの辰姫に捧げてあげて下さい」とお願いをしました。
その時私は思ったのです。
「僧の方に頼るのではなく、私自身でこの人(辰姫)が喜んでくれる事をしてあげたい」と。
・・・私が経典と仏教を調べ、経典のいくつかを読経・読誦するキッカケとなった瞬間、出来事です。
それゆえ、私は今でも「私の般若心経は辰姫が授けてくれたもの。般若心経は私と辰姫の絆の証」と思っています。
今は亡き私の祖父は存命中は毎日仏壇に読経を捧げていました。しかし祖父が亡くなった後、度胸をする人間は我が家には誰もいませんでした。
私は祖父をい今でも尊敬しています。
・・・祖父の日課を継承すれば祖父も喜んでくれるかな・・・。
生きている人間を喜ばせる手段はいくらでもある。
生きている人間だけではなく今は亡き故人たちに喜んでもらえる手段の一つ。
・・・それが今の私の日課、読経です。
そして仏教を調べた事は、辰姫を研究する上で幾つもの発見や糸口につながっています。
私の読経する経典・陀羅尼は今では「懺悔文、大悲新陀羅尼、聖観音咒、光明真言、般若心経、回向門」に増え、まだまだ経典を覚えるつもりでいます(他の経典や陀羅尼も幾つかは知っていますが)。
そんな経緯を経て、今、私は「辰姫研究」と「読経」を生きがい・・・いや、使命と思ってやっています。
こんな42歳のオジサンは、さぞ珍しいと思います。
「変わってる」「変人」と言われても否定しません。
しかしそれが私です。
それに・・・
私はどう思われてもかまいません。
辰姫の事を一人でも多くの方々に知ってもらえれば大満足です。
今現在、生業に追われる日々を送っていますが、辰姫研究は地道に進めています。
研究記事がなかなか書けていませんが、当然、記事を書き続けていきます。
多くの人々が辰姫を知ってくれる事を、そして400年間、歴史の闇に覆われ続けてきた辰姫が歴史の陽の目を沢山浴びる事ができる事を願っています。