今回は仏教エッセイの記事です。
いくつかの仏教経典(お経・陀羅尼)や仏教の説く教えの内容や私自身が日課としている読経や日々意識している仏教の教えなどを記事にしたためてきました。
その中で仏教の教えの一つ、”業(ごう)”、すなわち「善い事をすれば善い事が、悪い事をすれば悪い事が、形を変えて必ず自分に返ってくる」という”因果応報”についても度々述べてきました。
そして「善い事の積み重ね」が、すなわち功徳である事言う事も述べてきました。
その「善い事の積み重ね」が功徳で、因果応報、すなわち”業”であり、その善い行いが形を変えて自分に返ってくるものである事も述べてきましたが・・・。
今回の記事はその功徳、すなわち徳、についてです。
善い事(徳)の積み重ねが功徳であるのですが、その功徳、すなわち徳は、短絡的に分類すると二種類に分類できます。
それは・・・
1、人目につく善い行い。
2、人目につかない、人知れずに行う善い行い。
・・・です。
2番の行い。これは仏教では”陰徳”と呼ばれるもので、人目に付く善い行いよりもずっと崇高で、徳の高さでははるかに上とされています。
特に密教では、陰徳は自分自身や自分の家にまつわる悪い因縁や業を断ち切る要素の一つとされているのです。
善い行いは気分のいいものです。
TVのニュースなどで、名前が出て一般庶民では出来ないような多額の援助や行為を称える報道を目にする事がありますが、これは徳にはなりますが陰徳ではありません。
誰の目にもつかない、誰にも知られない、つまり誰にも評価されず、称えられも褒められもしない。しかし自分以外の存在の為に行う善い行い(←利他行(りたぎょう)と言います)が”陰徳”なのです。
仏教でいう仏(如来・菩薩・明王・天部)は、神道でいう神ではありません。
仏教・密教では「仏全てを見通している。何でもお見通し」と説かれています。それゆえに神社(神)への参拝では神に対し自己アピールの為に手を二回叩きますが、寺(仏)への参拝は手を叩きません。
そう、誰にも知られなくても、誰も褒めてくれなくても、その陰徳は仏(如来・菩薩・明王・天部)はちゃ~んと見ていて知ってるよと、仏教では説いているのです。
”煩悩の塊”はたまた絵にかいたようなボンクラ者の私は(笑)、善い事をしたりすると、たま~に、つい「誰かに自分のした事を知ってもらいたいな~」な~んて思ってしまう事もあるのですが(笑)、皆さまはどうでしょう?
しかし、誰にも気づかれなくてもだれも褒めてくれなくても、仏という存在を信じられていれば、その仏達(如来・菩薩・明王・天部)はちゃんと知ってくれていると思えて、陰徳を積めるというものでしょう。
自分が信仰を持っている仏や、いつも手を合わせている仏像や寺の本尊の仏はちゃんと知っていると思えば、嬉しく思えますね。
そしてその陰徳は、人目に付く徳よりも遙かに上の徳。
そして、その陰徳は、すなわち善い行い、善い業は、因果応報によって、形を変えて自分に必ず返ってくる。
ちなみに陰徳を積む一つの方法として、密教では墓参りの際に、無縁仏の供養塔に線香を一本挙げ合掌してから自身の先祖の墓参りに向かうと高い陰徳を積むとされています。
その行為は無縁仏の墓石を洗ってあげる以上に高いものだとされているようです。
身寄りのなくなってしまった無縁仏にも供養を示す事が分け隔て無い利他行であり、何気ないその行為が”陰徳”となるわけなんですね。
まぁ、自分のやった善い事をひけらかすようでは、「なんだよ、偉そうに・・・自慢かよ!」と思われる事もあるものです。
それに、後に知られた善い行いは、人の心に響き残るものですし、スケールによっては語り継がれたりするのが歴史を見ても頷けるところです。
陰徳が人目に付く徳を上回るとされるのも納得ですね。
誰も気付かなくても、誰も褒めてくれなくても
人間以上の存在である仏達(如来・菩薩・明王・天部)はちゃんと見ていて知っている。
そしてその陰徳は、業であり、因果応報で自分に形を変えて必ず返ってくる。
自分自身も、他の存在も、善が巡る。
素晴らしいですね。
私も陰徳を積むよう、心がけて、日々を送ろうと思っています。
いくつかの仏教経典(お経・陀羅尼)や仏教の説く教えの内容や私自身が日課としている読経や日々意識している仏教の教えなどを記事にしたためてきました。
その中で仏教の教えの一つ、”業(ごう)”、すなわち「善い事をすれば善い事が、悪い事をすれば悪い事が、形を変えて必ず自分に返ってくる」という”因果応報”についても度々述べてきました。
そして「善い事の積み重ね」が、すなわち功徳である事言う事も述べてきました。
その「善い事の積み重ね」が功徳で、因果応報、すなわち”業”であり、その善い行いが形を変えて自分に返ってくるものである事も述べてきましたが・・・。
今回の記事はその功徳、すなわち徳、についてです。
善い事(徳)の積み重ねが功徳であるのですが、その功徳、すなわち徳は、短絡的に分類すると二種類に分類できます。
それは・・・
1、人目につく善い行い。
2、人目につかない、人知れずに行う善い行い。
・・・です。
2番の行い。これは仏教では”陰徳”と呼ばれるもので、人目に付く善い行いよりもずっと崇高で、徳の高さでははるかに上とされています。
特に密教では、陰徳は自分自身や自分の家にまつわる悪い因縁や業を断ち切る要素の一つとされているのです。
善い行いは気分のいいものです。
TVのニュースなどで、名前が出て一般庶民では出来ないような多額の援助や行為を称える報道を目にする事がありますが、これは徳にはなりますが陰徳ではありません。
誰の目にもつかない、誰にも知られない、つまり誰にも評価されず、称えられも褒められもしない。しかし自分以外の存在の為に行う善い行い(←利他行(りたぎょう)と言います)が”陰徳”なのです。
仏教でいう仏(如来・菩薩・明王・天部)は、神道でいう神ではありません。
仏教・密教では「仏全てを見通している。何でもお見通し」と説かれています。それゆえに神社(神)への参拝では神に対し自己アピールの為に手を二回叩きますが、寺(仏)への参拝は手を叩きません。
そう、誰にも知られなくても、誰も褒めてくれなくても、その陰徳は仏(如来・菩薩・明王・天部)はちゃ~んと見ていて知ってるよと、仏教では説いているのです。
”煩悩の塊”はたまた絵にかいたようなボンクラ者の私は(笑)、善い事をしたりすると、たま~に、つい「誰かに自分のした事を知ってもらいたいな~」な~んて思ってしまう事もあるのですが(笑)、皆さまはどうでしょう?
しかし、誰にも気づかれなくてもだれも褒めてくれなくても、仏という存在を信じられていれば、その仏達(如来・菩薩・明王・天部)はちゃんと知ってくれていると思えて、陰徳を積めるというものでしょう。
自分が信仰を持っている仏や、いつも手を合わせている仏像や寺の本尊の仏はちゃんと知っていると思えば、嬉しく思えますね。
そしてその陰徳は、人目に付く徳よりも遙かに上の徳。
そして、その陰徳は、すなわち善い行い、善い業は、因果応報によって、形を変えて自分に必ず返ってくる。
ちなみに陰徳を積む一つの方法として、密教では墓参りの際に、無縁仏の供養塔に線香を一本挙げ合掌してから自身の先祖の墓参りに向かうと高い陰徳を積むとされています。
その行為は無縁仏の墓石を洗ってあげる以上に高いものだとされているようです。
身寄りのなくなってしまった無縁仏にも供養を示す事が分け隔て無い利他行であり、何気ないその行為が”陰徳”となるわけなんですね。
まぁ、自分のやった善い事をひけらかすようでは、「なんだよ、偉そうに・・・自慢かよ!」と思われる事もあるものです。
それに、後に知られた善い行いは、人の心に響き残るものですし、スケールによっては語り継がれたりするのが歴史を見ても頷けるところです。
陰徳が人目に付く徳を上回るとされるのも納得ですね。
誰も気付かなくても、誰も褒めてくれなくても
人間以上の存在である仏達(如来・菩薩・明王・天部)はちゃんと見ていて知っている。
そしてその陰徳は、業であり、因果応報で自分に形を変えて必ず返ってくる。
自分自身も、他の存在も、善が巡る。
素晴らしいですね。
私も陰徳を積むよう、心がけて、日々を送ろうと思っています。