今回は仏教のエッセイです。
今までの仏教エッセイの記事でお経(経典・陀羅尼(真言))を中心に述べてきましたが、今回は御仏の祈り方について私が学んだものを述べようと思います。
大抵の人は、困った時や自分の願いを叶えたい時に、ひたすらに神仏に「どうか○○になりますように」とか「○○して下さい」等と手を合わせ願うものです。
でも、コレ、全く御仏を念じる事にはなっていないんです。
・・・なぜでしょう?
簡単です。一番初めに自分の願望が先立ってますよね。
御仏という存在より自分の願い事(我、願望)を重んじている事になります。
誰だって、助けを求められた時に、こちらの事より自分の事だけ考え述べているような人に、快く救いの手を差し伸べるでしょうか?
私なら「何?この期に及んでまだ自分、自分ですか???」と呆れてしまいます。
・・・もっとも御仏は私達人間とは異なる存在とされていますので、御仏がどう思われるかは知る由もありませんけどね。
そこで、私の学び得た御仏の祈りの仕方を述べようと思います。
「観無量寿経」というお経の中にそれは述べられています。
「観無量寿経」では、お釈迦様が弟子の一人である阿難に対しこう述べる場面が出てきます。
「もし、観世音菩薩を見ようとするならこう観想しなさい。そうすれば様々な災いにあわず、業を清め、過去の罪を滅ぼす事が出来る。観世音菩薩の名を聴くだけでも無量の福がある。観想するなら尚更である。もし観世音菩薩を観想するなら、まず頂上の肉髻(頭の天辺。悟った存在は頭の天辺が盛り上がる。頭の天辺の出っ張りは冠ではないのです)を想いなさい。次に冠。そうして上から順に下に向かって想うようにしなさい。これが正しい観音の感想である。みだりに勝手な観想の仕方をしてはならない」
・・・と述べられています。
そして、
「諸仏、諸菩薩は法界身、つまり形を変え、宇宙に遍満している。故に一切衆生の心想に入り給うのである。故に、心に仏を想えば心は仏の姿になる。この仏を想う心こそ仏を形作る。この心が仏であり仏を生むのである」
・・・と。
つまり、仏を想うところに仏は存在する。その心こそ御仏であるというのです。
さらに密教になると、観想の仕方も進展します。
「広観」という方法です。
仏が段々大きくなり、更に巨大な宇宙代の仏様が、”斂観(れんかん)”といい、徐々に縮小して等身大となって、自分と一つであるとイメージする観想法です。
観世音菩薩に限らず、どんな御仏でもこのように観想するというのです。
こうしてみていくと、自分の願い事をひたすら念じる事は、ただ単に自分の願い事を念じているだけである事が解りますね。
御仏は”全てを見通し知っている存在”とされています。
その事を理解すれば、自分の望む事もわざわざ思わなくても御仏はお見通し、わかっているという事です。
それを示すように、神社では参拝・祈願の時に手を二回叩きますが、寺では手を叩きません。
神社で手を二回叩くのは、こちらの存在を神様にお知らせし、願いを聞いてもらう為です。
寺で手を叩かないのは、手を叩かなくても、こちらの事を全て御仏は見通しているという意味があるのです。
・・・だから、願い事を念じるのではなく、上記した観想が正しいという事になるのですね。
ただ・・・言うは易し、行いは難しです。
御仏の存在に疑念を抱いては、当然、自分の願望が先立ってしまい、御仏ではなく、自分の願望を念じているだけ、または自分の願望の方が御仏の存在より強くなってしまいますね。
つまり・・・
自分の願望は思わず、御仏だけを心に思い浮かべ、心が御仏であると疑念を持たず念じる(思い込む)事なのです。
人間は証明できないものや目に見えないものを疑い否定する生き物です。
ですが、”証明できないもの=存在しない”と決めつけるのは、いささか狭量だと私は思っています。
それは、心は目に見えずどこに存在するのかも解剖学的に証明できていませんが、確かに存在するからです。スケールを広大にすれば”宇宙の成り立ちや起源”もそうです。
私は宗教を勧めているのではありません。
信仰を勧めているのでもありません。
その点は強調しておきます。
ただ・・・
運が悪いとか、自分を悲劇の主人公にし自分を慰めたり、自分の不遇に嘆くのみで、自分を不遇や崩壊から救う事も出来ずに壊れていくくらいなら、心の支えとなる何かを持ち、それを人知れず抱き、自分を律し、正しい方向に歩む事の方が生きている事に自己責任があると私は思います。
その一つが御仏の教えである仏教であり、読経や写経、禅、ヨーガ、そして今回の記事にした観想はその方法の一つであるといえるでしょう。
今までの仏教エッセイの記事でお経(経典・陀羅尼(真言))を中心に述べてきましたが、今回は御仏の祈り方について私が学んだものを述べようと思います。
大抵の人は、困った時や自分の願いを叶えたい時に、ひたすらに神仏に「どうか○○になりますように」とか「○○して下さい」等と手を合わせ願うものです。
でも、コレ、全く御仏を念じる事にはなっていないんです。
・・・なぜでしょう?
簡単です。一番初めに自分の願望が先立ってますよね。
御仏という存在より自分の願い事(我、願望)を重んじている事になります。
誰だって、助けを求められた時に、こちらの事より自分の事だけ考え述べているような人に、快く救いの手を差し伸べるでしょうか?
私なら「何?この期に及んでまだ自分、自分ですか???」と呆れてしまいます。
・・・もっとも御仏は私達人間とは異なる存在とされていますので、御仏がどう思われるかは知る由もありませんけどね。
そこで、私の学び得た御仏の祈りの仕方を述べようと思います。
「観無量寿経」というお経の中にそれは述べられています。
「観無量寿経」では、お釈迦様が弟子の一人である阿難に対しこう述べる場面が出てきます。
「もし、観世音菩薩を見ようとするならこう観想しなさい。そうすれば様々な災いにあわず、業を清め、過去の罪を滅ぼす事が出来る。観世音菩薩の名を聴くだけでも無量の福がある。観想するなら尚更である。もし観世音菩薩を観想するなら、まず頂上の肉髻(頭の天辺。悟った存在は頭の天辺が盛り上がる。頭の天辺の出っ張りは冠ではないのです)を想いなさい。次に冠。そうして上から順に下に向かって想うようにしなさい。これが正しい観音の感想である。みだりに勝手な観想の仕方をしてはならない」
・・・と述べられています。
そして、
「諸仏、諸菩薩は法界身、つまり形を変え、宇宙に遍満している。故に一切衆生の心想に入り給うのである。故に、心に仏を想えば心は仏の姿になる。この仏を想う心こそ仏を形作る。この心が仏であり仏を生むのである」
・・・と。
つまり、仏を想うところに仏は存在する。その心こそ御仏であるというのです。
さらに密教になると、観想の仕方も進展します。
「広観」という方法です。
仏が段々大きくなり、更に巨大な宇宙代の仏様が、”斂観(れんかん)”といい、徐々に縮小して等身大となって、自分と一つであるとイメージする観想法です。
観世音菩薩に限らず、どんな御仏でもこのように観想するというのです。
こうしてみていくと、自分の願い事をひたすら念じる事は、ただ単に自分の願い事を念じているだけである事が解りますね。
御仏は”全てを見通し知っている存在”とされています。
その事を理解すれば、自分の望む事もわざわざ思わなくても御仏はお見通し、わかっているという事です。
それを示すように、神社では参拝・祈願の時に手を二回叩きますが、寺では手を叩きません。
神社で手を二回叩くのは、こちらの存在を神様にお知らせし、願いを聞いてもらう為です。
寺で手を叩かないのは、手を叩かなくても、こちらの事を全て御仏は見通しているという意味があるのです。
・・・だから、願い事を念じるのではなく、上記した観想が正しいという事になるのですね。
ただ・・・言うは易し、行いは難しです。
御仏の存在に疑念を抱いては、当然、自分の願望が先立ってしまい、御仏ではなく、自分の願望を念じているだけ、または自分の願望の方が御仏の存在より強くなってしまいますね。
つまり・・・
自分の願望は思わず、御仏だけを心に思い浮かべ、心が御仏であると疑念を持たず念じる(思い込む)事なのです。
人間は証明できないものや目に見えないものを疑い否定する生き物です。
ですが、”証明できないもの=存在しない”と決めつけるのは、いささか狭量だと私は思っています。
それは、心は目に見えずどこに存在するのかも解剖学的に証明できていませんが、確かに存在するからです。スケールを広大にすれば”宇宙の成り立ちや起源”もそうです。
私は宗教を勧めているのではありません。
信仰を勧めているのでもありません。
その点は強調しておきます。
ただ・・・
運が悪いとか、自分を悲劇の主人公にし自分を慰めたり、自分の不遇に嘆くのみで、自分を不遇や崩壊から救う事も出来ずに壊れていくくらいなら、心の支えとなる何かを持ち、それを人知れず抱き、自分を律し、正しい方向に歩む事の方が生きている事に自己責任があると私は思います。
その一つが御仏の教えである仏教であり、読経や写経、禅、ヨーガ、そして今回の記事にした観想はその方法の一つであるといえるでしょう。