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Channel: 辰姫 ~石田三成の娘の生涯と軌跡~
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大悲心陀羅尼が読誦出来る事で成り立つ「一宿五遍千手経法」について

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 さて、今回は仏教のエッセイです。


 以前、仏教のエッセイの中でお経の一つである大悲心陀羅尼について書きましたが、その延長として述べようと思います。

 その延長とは・・・「一宿五遍千手経法」というものです。
 なので、この「一宿五遍千手経法」について知る為にはまず、以前に書いた大悲心陀羅尼についての記事を参照した後にこの記事を読んで頂きたいと思います。

 大悲心陀羅尼は”千手千眼観世音菩薩広大円満無礙大悲心陀羅尼経”というお経の中で述べられている陀羅尼(仏にしか本当の意味が解らないとされる言葉、すなわち真言)です。仏教宗派によっては”三陀羅尼の一つ”として位置づけられ、最も大事にされている陀羅尼の一つでもあります。

 大悲心陀羅尼については大悲心陀羅尼についての記事を参照して頂きたいと思います。が、要点を述べれば・・・

 ”千手千眼観世音菩薩広大円満無礙大悲心陀羅尼経”は観世音菩薩が千手観音(千手千眼観世音菩薩)になった経緯が述べられ、観世音菩薩が人々を漏らさず救う事を如来に願い、その如来から陀羅尼を授かり、その陀羅尼にとって千手観音になる事が出来た事が描かれており、その陀羅尼こそ”大悲心陀羅尼”であり、その大悲心陀羅尼の用い方・もたらす効果・功徳が述べられています。

 その大悲心陀羅尼の用い方の一つが今回述べる「一宿五遍千手経法」です。

 "一宿"とは日中の事、昼間、一日のうちという意味で、五遍は五回を意味しています。
 つまりは、簡単に述べてしまえば、日中のうちに五回、この大悲心陀羅尼を読誦するという事です。

 この「一宿五遍千手経法」は様々な不吉を取り除き、様々なものを得るとされ、大悲心陀羅尼自体に十五の死から逃れ、十五の得るものがあると”千手千眼観世音菩薩広大円満無礙大悲心陀羅尼経”の中で述べられています。
 その中には、夫婦円満や病気の改善など現代の感覚で具体的なものまで示されています。

 ・・・ですが、ただ大悲心陀羅尼を五回読むだけでは一宿五遍千手経法とはいえません。

 読誦。すなわち、そのお経の意味や陀羅尼の主旨をしっかり会得し、完全に暗記暗唱出来、かつ、疑いを持たずにそのお経(陀羅尼)を唱える事が出来るという事が読誦です。

 ・・・口で言うのは簡単ですが、コレ、本当に難しい事だと私は思います。
 だって、大悲心陀羅尼に疑念を一切持ってはならないのですから。

 そのうえで、千手観音(千手千限観世音菩薩)の姿(”千手千眼観世音菩薩広大円満無礙大悲心陀羅尼経”の中では像と書かれています)の前で大悲心陀羅尼を五回読誦する事を説かれています。


 仏教の教えの中で、仏とお経については、仏は本来我々が知る様な姿は無いとされますが、我々が知る仏の姿は、その信仰を容易にする為に人を模った姿にしているとあり、その状況や目的(救済)によって無限に姿を変えるとされています。
 お経や陀羅尼は仏の教え、智慧の事です。
 つまりはお経そのものが仏の姿の一つであると言えるのです。

 なるほど、お経(陀羅尼)そのものが仏の一つの姿とするならば、そのお経(陀羅尼)に疑いを抱く事は仏に疑いを持つ事でもありますね。
 であれば、この「一宿五遍千手経法」が疑念や疑いを持たずに唱える事、すなわち”読誦”が前提と言われるのも納得ですね。


 人とは不完全なものです。弱いものです。
 世の中には人々から”自分を持ってる強い人”と称される人がいますが、その根底には、自分の夢、目標、大切な人々、支え、信じるもの、といった”心の支えとなる”ものがあるからではないでしょうか。

 その”心の支え”は人によって異なるものです。
 仏教で位置付けるのであれば、写経、読経、禅、ヨーガ、念仏、などなど、それらも方法(仏教ではこれらは修行の方法の一つ一つとされています)の一つと言っていいでしょうね。

 人に勧めたりあからさまにする事無く、自分自身の中でその心の支えを大切に自信を支える柱としていく事は、日々の悩みの絶えない現代の生活を送る上で自分を崩壊させない為には、私は有効な事であると思っています。
 ・・・自分が壊れてしまっては、本末転倒ですからね。

 幸せの形や自分の心の支えといったものは、誰しも異なるものなのです。

 仏教や宗教といった”信仰”はその形の一つではないでしょうか。

 その心の支えとなる”信仰”の中の形の一つの方法。
 日中、千手観音の前で大悲心陀羅尼を五回”読誦”する事。要はコレが「一宿五遍千手経法」です。


 ここからは余談ですが・・・

 ちなみに、私は般若心経や消災妙吉祥陀羅尼や大悲心陀羅尼などのお経や陀羅尼を幾つか読誦出来ますが、大悲心陀羅尼と般若心経の中に説かれている陀羅尼はその中でも究極奥義くらいに思って、日々、祖父の形見の聖観音像と自分で入手した千手観音像の前(と辰姫の戒名と名前の前、あと別の場所にある自身の先祖の仏壇の前)で読経をしています。

 読経は私が祖父の日課を自分の意志で継承した今の私の日課です。
 もっとも祖父の読誦していた経典は何だかわかりませんけどね(般若心経や大悲心陀羅尼ではなかったようです。祖父も無宗派でしたから)。
 宗派に捉われずに観音様の像を拝んでいたのですから・・・いわば、平安時代から一般庶民に流行した古の信仰の形、”観音信仰”に位置付けられるでしょうね。
 祖父から継承し、仏教の学びを取り入れた私の信仰の形です。


 読経や観音信仰についても、以前、仏教エッセイの記事にしていますので詳しくは参照下さい。 


 仏教は”より善くある為の教え”に他なりません。
 日々の生活の中での悩みや不安、自殺や争いといった事が日々報道されるような現代社会で、自分が壊れる事がないよう、より善くあるように仏教(の教え、方法(写経、読経、禅など))を活かす事は、一つの手段として有意義であると私は思います。
 


【注意】
 ・・・ちなみに現代には、仏教やキリスト教やイスラム教といった大昔から伝来している宗教(信仰)の他に、本当に無数の宗教や宗教団体が存在していますが、そういった”現代の新興宗教や宗教団体”を私は一切信じておりません。特定の仏教宗派にも属していません。あしからず(笑)。 

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