ある日のある場面の事です。
一人の老人が「南無法蓮華経」と口にしていました。
その事をある一人の若者が「怖~い」などと言っていました。
皆様はどう思われますか?
私は宗教信者ではありませんし僧侶でもありません。
・・・ですが、この若者の感覚には「なんで?」と思ってしまいました。
人が何を信じようと自由でしょう。
神仏しかり、身近な人物や、彼氏彼女やら、初詣で買ったお守りでも、イワシの頭でも・・・。
・・・いったい何が「怖~い」なのか私には理解できませんでした。
何百年も昔から伝わる救いを求める言葉の一つと、それを口にした老人の心境に対し、ふざけ半分の「怖~い」などという言葉を吐く感覚と発言はいかがなものでしょうかね(ちなみに私は「南無法蓮華経」という言葉は使う気は全くありません)。
こういった事を考えること自体、私もフケッたのでしょうかね。
それとも経典(お経)に対して親しみがあるせいか・・・いや、経典の読みすぎ(読経のし過ぎ)でしょうか?
いや・・・読経の回数は僧侶の足元にも及ばないはずだからなぁ・・・。
ともあれ、相手やその言葉や発言に対して偏見で相手を短絡的に否定拒否するのは・・・お経や宗教云々ではなく、人としてどうなのだろう・・・。
因果応報。
やった事はどんなに些細な事でも、自分に返ってくる。それも形を変えて、しかもいつ返ってくるかわからない。しかし確実に、絶対に返ってくるもの。
(だから最近は自分にとって嫌な事が起きた時「私もそれだけの事をしたのだからそれが返ってきたのかね。なら受け止めてしっかり対処するしかないな・・・」などと思っている私です。懺悔文を読み始めたせいもあるのかな・・・?)
調子に乗った短絡的でしかも否定的な発言は聞いていて不愉快なものですね。
気を付けようと思いましたね。
一人の老人が「南無法蓮華経」と口にしていました。
その事をある一人の若者が「怖~い」などと言っていました。
皆様はどう思われますか?
私は宗教信者ではありませんし僧侶でもありません。
・・・ですが、この若者の感覚には「なんで?」と思ってしまいました。
人が何を信じようと自由でしょう。
神仏しかり、身近な人物や、彼氏彼女やら、初詣で買ったお守りでも、イワシの頭でも・・・。
・・・いったい何が「怖~い」なのか私には理解できませんでした。
何百年も昔から伝わる救いを求める言葉の一つと、それを口にした老人の心境に対し、ふざけ半分の「怖~い」などという言葉を吐く感覚と発言はいかがなものでしょうかね(ちなみに私は「南無法蓮華経」という言葉は使う気は全くありません)。
こういった事を考えること自体、私もフケッたのでしょうかね。
それとも経典(お経)に対して親しみがあるせいか・・・いや、経典の読みすぎ(読経のし過ぎ)でしょうか?
いや・・・読経の回数は僧侶の足元にも及ばないはずだからなぁ・・・。
ともあれ、相手やその言葉や発言に対して偏見で相手を短絡的に否定拒否するのは・・・お経や宗教云々ではなく、人としてどうなのだろう・・・。
因果応報。
やった事はどんなに些細な事でも、自分に返ってくる。それも形を変えて、しかもいつ返ってくるかわからない。しかし確実に、絶対に返ってくるもの。
(だから最近は自分にとって嫌な事が起きた時「私もそれだけの事をしたのだからそれが返ってきたのかね。なら受け止めてしっかり対処するしかないな・・・」などと思っている私です。懺悔文を読み始めたせいもあるのかな・・・?)
調子に乗った短絡的でしかも否定的な発言は聞いていて不愉快なものですね。
気を付けようと思いましたね。