昨日の記事の続きの形となりますが、辰姫の墓前へ伺ってきました。
土曜日でしたが、境内に人気は全くありませんでした。最近では辰姫の墓前に伺う度、境内に人気が無い機会を得られるので、私としてみれば想いや読経を遠慮なくしっかり声に出せるので有り難いかぎりです。
いつもの様に研究報告と想いと私の現状や心境などを述べてきました。
そして今日は、昨日の記事に書いた通り、「妻に邪魔にされて、今日はこちらに来てしまいました」と墓石に告げました。
・・・辰姫は笑ってくれていたでしょうかね(笑)
辰姫の墓石と辰姫の墓石に並び立つ9基の墓石群、そして本堂と薬師如来堂と地蔵菩薩像にしっかり読経を捧げ、その後は買い物を済ませました。
帰り道に辰姫の人生や辰姫の関係者の事などをふと考えました。
その帰り道に道路の電光掲示板に”悲しみはもうたくさん”という言葉が派手な色で表示されていました。
いささかロマンチストの様に捉えられてしまうかもしれませんが、私はその言葉が辰姫とダブってなりませんでした。
辰姫研究記事を全て見て頂くとお分かりになるかと思いますが、辰姫の人生は悲しみに耐え抜いた人生です。
本当に気の弱い姫君なら自害や出家という手段をとってもおかしくないくらいだと私は見ています。
それでも辰姫は病でこの世を去るまで、32歳という短い人生を全うしています。
その人生と関係者を見ると、辰姫を慕い続けた夫・津軽信枚と兄・杉山源吾、高台院の養女時代に共に執事を務めていた孝蔵主が、徳川という強大な権力が日本全土にはびこる中で辰姫の為に、できうる限りの事を尽くしたことが見えてきます。
そして辰姫の一人息子・津軽信義(幼名:平蔵)が、津軽家の当主となったのにもいかに母・辰姫を想い続けていたかが津軽の地に辰姫の墓を築くまでにかかった年数をみれば想像に難なくありません。
これからも毎月、不定期ですが必ず辰姫の墓前に読経を捧げに伺うつもりです。そして日々の日課でも辰姫に読経を捧げ続けていくつもりでいます。
そして何よりも、私が生きているうちに必ず辰姫の生涯を書籍化します。言い切ります。
今日の読経もしっかり辰姫に届いて辰姫が喜んでくれたと願いたいです。
・・・また、今日の私の「妻に邪魔にされて、今日はこちらに来てしまいました」という言葉に笑ってくれたと思いたいですね。
土曜日でしたが、境内に人気は全くありませんでした。最近では辰姫の墓前に伺う度、境内に人気が無い機会を得られるので、私としてみれば想いや読経を遠慮なくしっかり声に出せるので有り難いかぎりです。
いつもの様に研究報告と想いと私の現状や心境などを述べてきました。
そして今日は、昨日の記事に書いた通り、「妻に邪魔にされて、今日はこちらに来てしまいました」と墓石に告げました。
・・・辰姫は笑ってくれていたでしょうかね(笑)
辰姫の墓石と辰姫の墓石に並び立つ9基の墓石群、そして本堂と薬師如来堂と地蔵菩薩像にしっかり読経を捧げ、その後は買い物を済ませました。
帰り道に辰姫の人生や辰姫の関係者の事などをふと考えました。
その帰り道に道路の電光掲示板に”悲しみはもうたくさん”という言葉が派手な色で表示されていました。
いささかロマンチストの様に捉えられてしまうかもしれませんが、私はその言葉が辰姫とダブってなりませんでした。
辰姫研究記事を全て見て頂くとお分かりになるかと思いますが、辰姫の人生は悲しみに耐え抜いた人生です。
本当に気の弱い姫君なら自害や出家という手段をとってもおかしくないくらいだと私は見ています。
それでも辰姫は病でこの世を去るまで、32歳という短い人生を全うしています。
その人生と関係者を見ると、辰姫を慕い続けた夫・津軽信枚と兄・杉山源吾、高台院の養女時代に共に執事を務めていた孝蔵主が、徳川という強大な権力が日本全土にはびこる中で辰姫の為に、できうる限りの事を尽くしたことが見えてきます。
そして辰姫の一人息子・津軽信義(幼名:平蔵)が、津軽家の当主となったのにもいかに母・辰姫を想い続けていたかが津軽の地に辰姫の墓を築くまでにかかった年数をみれば想像に難なくありません。
これからも毎月、不定期ですが必ず辰姫の墓前に読経を捧げに伺うつもりです。そして日々の日課でも辰姫に読経を捧げ続けていくつもりでいます。
そして何よりも、私が生きているうちに必ず辰姫の生涯を書籍化します。言い切ります。
今日の読経もしっかり辰姫に届いて辰姫が喜んでくれたと願いたいです。
・・・また、今日の私の「妻に邪魔にされて、今日はこちらに来てしまいました」という言葉に笑ってくれたと思いたいですね。