某歴史雑誌9月号に石田三成の特集が組まれ発売されています。
この某雑誌の70~73ページに石田三成と津軽藩との繋がりが書かれており、三成子孫略系図に肖像画も掲載され、その中に辰姫の名も見られています。
その4ページにわたっての文章の中に辰姫の事が書かれているのですが、書かれている内容が根拠のない通説と小説をもとに書かれていると私は一読して思い、辰姫の真相を追う事に生涯をかけているといっても過言ではない私はその誤解を解くべく、ここに雑誌の記事に対して自身の研究結果をもとに辰姫の事を説こうと思います。
まず、この某雑誌では辰姫は関ケ原の戦い以後、杉山源吾(石田三成の次男・石田重成)と津軽に逃れ、10年間匿われたとあります。そして、津軽藩に伝わる秀吉像は辰姫によって津軽にもたらされたとあります。
この点に関しては杉山源吾は津軽に逃れていますが、辰姫は北政所の養女として、まだ孝蔵主と共に北政所のもとにおり、北政所の御披露人を務めているはずです(このブログの私の研究記事の”お客人説”の記事をご覧下さい)。
また、秀吉像は津軽に辰姫によってもたらされたという説と杉山源吾によってもたらされたという2つの説が存在し、お客人説は相当有力で一次資料(当時の諸将の書状)をもとに検証しても真相であると考えてよいと考えます。お客人説をもとにすれば辰姫ではなく杉山源吾がもたらした可能性の方が断然高いと言い切れます。石田三成を通して津軽にもたらされたとするのであれば、北政所のもとに居た辰姫より、秀吉の小姓であった杉山源吾の方が秀吉像を三成から託されたとみる方が自然だからです。
また、この某雑誌の72ページでは辰姫と夫・津軽信枚のなりそめを”信枚は都の香りを漂わせ、上品で垢抜けした辰子に一目惚れして正式な妻にした。”とあります。
この点についてもこのブログの私の研究記事に詳しく記載しています(辰姫の結婚についての複数の記事を参照下さい)が、この某雑誌の記事は小説「風花の城」をもとにしたとしか考えられません。
研究記事で詳しく述べていますが、まず、”上品で垢抜けした”という辰姫の容姿や人柄を示す史料はこの世に存在しません(見つかっていません)。また、”一目惚れして正式な妻にした”という事に対しては、当時、敗軍の将・逆族扱いたる石田三成の娘を大名の津軽信枚が一目惚れなどという軽率な理由をもとに娶るという事は考えられません。政治的な働きかけが無い限り、三成の娘である辰姫が大名の正室になるという事は当時として考えられません。この点に関しても私の研究記事の中で詳しく述べていますので参照して頂きたいと思います。
そして、辰姫の一人息子・平蔵(津軽家三代目当主、津軽信義)を養育した満天姫を懐の深いように強調するような言い回しの文章が見られています。
この点もこのブログの私の研究記事の中で述べていますが、満天姫は信義が津軽家を継ぐ事に反対しており、信枚に押し切られ承諾しています。何よりも津軽家の当時の状況を分析すれば、満天姫には正室であった辰姫を側室に降格を余儀なくさせ正室の座を奪い、自分が津軽から大館という遠方の地に追放した辰姫の遺児を養育する事しか自分の立場を維持し生きていく手段が無かったからです。
懐が深いわけではありません。その証拠として信義が当主になってからも、辰姫の墓を大館から津軽に移したいという信義の願いは満天姫存命中は叶う事無く、満天姫他界後に20年以上の年月を経てようやっと実願しています。
やはり、何十年も前から伝わる根拠のない通説と現代の創作品の影響力は凄まじいとしか言いようがありません。
辰姫のように一次資料が皆無でまだ不明な点多く世に伝わる人物たちは空想・創作によって彩られがちです。
辰姫に関しては、辰姫を主体・軸とした一次資料は墓石しかありません(見つかっていません)。その真相を導くには他の人物や家の史料・資料の中に僅かに登場する辰姫の動向を追うしかありません。
もっとも、墓石に刻まれている戒名が生前の辰姫の人柄を示していますが・・・。
詳しくはこのブログの私の辰姫研究記事を隅々まで参照して頂ければと思います。
本当の辰姫の生き様と人柄を多くの方に知って頂きたいと思います。
この某雑誌の70~73ページに石田三成と津軽藩との繋がりが書かれており、三成子孫略系図に肖像画も掲載され、その中に辰姫の名も見られています。
その4ページにわたっての文章の中に辰姫の事が書かれているのですが、書かれている内容が根拠のない通説と小説をもとに書かれていると私は一読して思い、辰姫の真相を追う事に生涯をかけているといっても過言ではない私はその誤解を解くべく、ここに雑誌の記事に対して自身の研究結果をもとに辰姫の事を説こうと思います。
まず、この某雑誌では辰姫は関ケ原の戦い以後、杉山源吾(石田三成の次男・石田重成)と津軽に逃れ、10年間匿われたとあります。そして、津軽藩に伝わる秀吉像は辰姫によって津軽にもたらされたとあります。
この点に関しては杉山源吾は津軽に逃れていますが、辰姫は北政所の養女として、まだ孝蔵主と共に北政所のもとにおり、北政所の御披露人を務めているはずです(このブログの私の研究記事の”お客人説”の記事をご覧下さい)。
また、秀吉像は津軽に辰姫によってもたらされたという説と杉山源吾によってもたらされたという2つの説が存在し、お客人説は相当有力で一次資料(当時の諸将の書状)をもとに検証しても真相であると考えてよいと考えます。お客人説をもとにすれば辰姫ではなく杉山源吾がもたらした可能性の方が断然高いと言い切れます。石田三成を通して津軽にもたらされたとするのであれば、北政所のもとに居た辰姫より、秀吉の小姓であった杉山源吾の方が秀吉像を三成から託されたとみる方が自然だからです。
また、この某雑誌の72ページでは辰姫と夫・津軽信枚のなりそめを”信枚は都の香りを漂わせ、上品で垢抜けした辰子に一目惚れして正式な妻にした。”とあります。
この点についてもこのブログの私の研究記事に詳しく記載しています(辰姫の結婚についての複数の記事を参照下さい)が、この某雑誌の記事は小説「風花の城」をもとにしたとしか考えられません。
研究記事で詳しく述べていますが、まず、”上品で垢抜けした”という辰姫の容姿や人柄を示す史料はこの世に存在しません(見つかっていません)。また、”一目惚れして正式な妻にした”という事に対しては、当時、敗軍の将・逆族扱いたる石田三成の娘を大名の津軽信枚が一目惚れなどという軽率な理由をもとに娶るという事は考えられません。政治的な働きかけが無い限り、三成の娘である辰姫が大名の正室になるという事は当時として考えられません。この点に関しても私の研究記事の中で詳しく述べていますので参照して頂きたいと思います。
そして、辰姫の一人息子・平蔵(津軽家三代目当主、津軽信義)を養育した満天姫を懐の深いように強調するような言い回しの文章が見られています。
この点もこのブログの私の研究記事の中で述べていますが、満天姫は信義が津軽家を継ぐ事に反対しており、信枚に押し切られ承諾しています。何よりも津軽家の当時の状況を分析すれば、満天姫には正室であった辰姫を側室に降格を余儀なくさせ正室の座を奪い、自分が津軽から大館という遠方の地に追放した辰姫の遺児を養育する事しか自分の立場を維持し生きていく手段が無かったからです。
懐が深いわけではありません。その証拠として信義が当主になってからも、辰姫の墓を大館から津軽に移したいという信義の願いは満天姫存命中は叶う事無く、満天姫他界後に20年以上の年月を経てようやっと実願しています。
やはり、何十年も前から伝わる根拠のない通説と現代の創作品の影響力は凄まじいとしか言いようがありません。
辰姫のように一次資料が皆無でまだ不明な点多く世に伝わる人物たちは空想・創作によって彩られがちです。
辰姫に関しては、辰姫を主体・軸とした一次資料は墓石しかありません(見つかっていません)。その真相を導くには他の人物や家の史料・資料の中に僅かに登場する辰姫の動向を追うしかありません。
もっとも、墓石に刻まれている戒名が生前の辰姫の人柄を示していますが・・・。
詳しくはこのブログの私の辰姫研究記事を隅々まで参照して頂ければと思います。
本当の辰姫の生き様と人柄を多くの方に知って頂きたいと思います。