辰姫は32年という短い生涯で唯一、夫・津軽信枚との間に一子(津軽家三代目当主・津軽信枚、幼名:平蔵)をもうけている事は再三述べてきました。
石田三成の血を引き継いでいる辰姫の一子信義を後継者とする為に、津軽信枚は凄まじいばかりの執念と愛情に満ちた行動をとっています。
その津軽信枚の行動を白石亨氏著「石田三成とその子孫」の中の一説より抜粋し、一部解りやすく表現を変え下記します。
1、辰姫の他界した1623(元和9)年の翌年の1624(寛永元)年の正月に熊野山に代参を送り、子孫繁栄を含む願文を奉呈している。
2、1624(寛永元)年、天海僧正に帰依し天台止観奥儀の悟明あり、帰国後一夏、百日潔斎の行を行っている。その願うところは国家安泰、子孫長久であった。
3、1624(寛永元)年、鷹岡城内に勧請した東照宮に岩鬼山叡平寺東照院を別当として寺領二百石を支給している。
特に百日潔斎の行は、一命に関わる難行であり、真言の行者・慶好院(又は金勝院)が一命に関わるからと忠告した。しかし信枚はそれを止めようとはしなかった。信枚の死を賭しての行動には、さすがの満天姫周辺も心を動かされたようである。
1624(寛永元)年5月21日、信義6歳で国入りが行われ、弘前城へ入城している。
1627(寛永4)年6月1日、信義は満天姫の養子となる。
1629(寛永6)年9月11日、将軍家にお目見えの為、出府。幕府には信義は満天姫の養子として届け出ている。
1629(寛永6)年9月21日、信枚は百沢寺に「一、・・・子孫繁栄祈願の事・・・。一、両上様御前如意満足・・・」他の願文を奉呈している。
それを見届けた1630(寛永7)年、信枚は「百日潔斎」の無理が災いしてか大病を患い、しかも病をおして同年10月には江戸に出発している。
同年11月26日、病状悪化の為に幕府から暇を頂き、帰国する手続きをとっている(秋田藩家老「梅津政景日記」)。
しかし、帰国することなく1631(寛永8)年正月14日、江戸の津軽藩邸で46歳の若さで津軽信枚は病死する。
辰姫他界から1年と経たず信枚は翌年の正月から、自身と辰姫の間に唯一授かった息子信義(平蔵)を後継者にする為に神仏に懇願するのみでなく、命がけの行動と四方八方あらゆる手立てを講じており、命に関わる行まで行なっています。もっともその行の為(?)に大病を患い他界してしまいますが、石田三成と辰姫の地を受け継いだ信義は徳川の時代に津軽家三代目当主になっています。
ここまでくると辰姫の一子であり自身の息子である信義(平蔵)に対する、命を顧みない溢れんばかりの愛情と執念すら見えるのは、歴史に関心がない方々でもお分かりになられるほどです。
信枚のこれらの行動は全て辰姫他界後の行動です。生前の辰姫が、まさか命を落としてまで自分の産んだ一子信義(平蔵)にここまで尽くす信枚の姿を想像できたかどうかは現代では知るよしもありません。
これは推測の領域ですが、他界後であるとはいえ、辰姫にとっては夫・津軽信枚の息子に対するこの行動は、夫としても男性としてもこれほど頼もしく、また辰姫が感謝と愛情を感じる行動は無かったのではないでしょうか。
明らかにいえる事は、辰姫の忘れ形見にして唯一の一子信義(平蔵)を命を賭して落命してまで徳川の時代に津軽家当主の座に君臨させたのは、辰姫が愛し、辰姫を愛した夫・津軽信枚だったという事です。
石田三成の血を引き継いでいる辰姫の一子信義を後継者とする為に、津軽信枚は凄まじいばかりの執念と愛情に満ちた行動をとっています。
その津軽信枚の行動を白石亨氏著「石田三成とその子孫」の中の一説より抜粋し、一部解りやすく表現を変え下記します。
1、辰姫の他界した1623(元和9)年の翌年の1624(寛永元)年の正月に熊野山に代参を送り、子孫繁栄を含む願文を奉呈している。
2、1624(寛永元)年、天海僧正に帰依し天台止観奥儀の悟明あり、帰国後一夏、百日潔斎の行を行っている。その願うところは国家安泰、子孫長久であった。
3、1624(寛永元)年、鷹岡城内に勧請した東照宮に岩鬼山叡平寺東照院を別当として寺領二百石を支給している。
特に百日潔斎の行は、一命に関わる難行であり、真言の行者・慶好院(又は金勝院)が一命に関わるからと忠告した。しかし信枚はそれを止めようとはしなかった。信枚の死を賭しての行動には、さすがの満天姫周辺も心を動かされたようである。
1624(寛永元)年5月21日、信義6歳で国入りが行われ、弘前城へ入城している。
1627(寛永4)年6月1日、信義は満天姫の養子となる。
1629(寛永6)年9月11日、将軍家にお目見えの為、出府。幕府には信義は満天姫の養子として届け出ている。
1629(寛永6)年9月21日、信枚は百沢寺に「一、・・・子孫繁栄祈願の事・・・。一、両上様御前如意満足・・・」他の願文を奉呈している。
それを見届けた1630(寛永7)年、信枚は「百日潔斎」の無理が災いしてか大病を患い、しかも病をおして同年10月には江戸に出発している。
同年11月26日、病状悪化の為に幕府から暇を頂き、帰国する手続きをとっている(秋田藩家老「梅津政景日記」)。
しかし、帰国することなく1631(寛永8)年正月14日、江戸の津軽藩邸で46歳の若さで津軽信枚は病死する。
辰姫他界から1年と経たず信枚は翌年の正月から、自身と辰姫の間に唯一授かった息子信義(平蔵)を後継者にする為に神仏に懇願するのみでなく、命がけの行動と四方八方あらゆる手立てを講じており、命に関わる行まで行なっています。もっともその行の為(?)に大病を患い他界してしまいますが、石田三成と辰姫の地を受け継いだ信義は徳川の時代に津軽家三代目当主になっています。
ここまでくると辰姫の一子であり自身の息子である信義(平蔵)に対する、命を顧みない溢れんばかりの愛情と執念すら見えるのは、歴史に関心がない方々でもお分かりになられるほどです。
信枚のこれらの行動は全て辰姫他界後の行動です。生前の辰姫が、まさか命を落としてまで自分の産んだ一子信義(平蔵)にここまで尽くす信枚の姿を想像できたかどうかは現代では知るよしもありません。
これは推測の領域ですが、他界後であるとはいえ、辰姫にとっては夫・津軽信枚の息子に対するこの行動は、夫としても男性としてもこれほど頼もしく、また辰姫が感謝と愛情を感じる行動は無かったのではないでしょうか。
明らかにいえる事は、辰姫の忘れ形見にして唯一の一子信義(平蔵)を命を賭して落命してまで徳川の時代に津軽家当主の座に君臨させたのは、辰姫が愛し、辰姫を愛した夫・津軽信枚だったという事です。