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Channel: 辰姫 ~石田三成の娘の生涯と軌跡~
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【エッセイ】授かった御縁だろうか・・・?

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 先日の5月18日。群馬県の東楊寺へ辰姫の墓参りに行ってきた。
 不定期ながら毎月の辰姫の墓参りは私の月例行事であり、聖地巡礼と言ってもいい程。

 いつものように辰姫の墓前で自身の近況報告と辰姫への感謝と想いを述べ、懺悔文、般若心経、大悲心陀羅尼、光明真言、回向文と読経をする。
 読経の最中、小さな虫が一匹、私の顔の周りを飛んだりする。
 小さな虫だが、私のヘタクソな読経を聞きに来てくれたのかなと思うと、それすらありがたく思える。

 読経の後に副住職様がいつものように声をかけて下さり、1時間ほどだっただろうか?本堂に招かれ、談義をする。
 こうした御縁も全て辰姫の墓参り、いや、辰姫の存在によって生じたもの。
 授かりものだ。

 また、いささか信心深過ぎるような印象を持たれるかもしれないが、少し前にこんな事があった。

 自宅近くの小さなショッピングモールに一人で買い物に行った時の事。
 その時私は仕事の事で悩んでいた(今もだが・・・)。自分の仕事の境遇や現状に不信感を募らせていた。
 そんな悶々とする思いをしながら歩いていると、日曜日でたまたまフリーマーケットの様に野外に出店を出している初老のオバチャンの出店の前を通りかかった。その出店は小さな仏像や数珠などを売っている仏具店だった。
 グッドタイミングというのであろうか、その出店を通りかかっている時、丁度、辰姫・・・どうしたらいいのでしょうか・・・などと心に語りかけた時だった。
 そのオバチャンの出店に置いてあった不動明王の小さな彫り物が目に移った。
 少々埃のついたその不動明王の小さな彫り物が無性に気になり、手に取ったら、オバチャンが”まけて”くれて、タバコ銭程度の値段で譲ってくれた。
 不動明王は私の生まれ本尊でも無く、今まで信仰心を持っていなかった。関心すらなかった。
 しかし、辰姫の事を考え心に辰姫に語りかけたその瞬間に飛び込んできた不動明王。
 辰姫は死後、夫の津軽信枚が展開に弟子入りした為、天台宗へ改宗され天台宗の戒名にされた。その天台宗の檀家の本尊にされるのが不動明王。
 私の誕生日は28日(生まれ月は秘密)。28日は不動明王の御縁日。

 ・・・以後、新たに不動明王の仏像を購入し、祖父の形見の観音像と共に、今は毎日読経をしている。

 辰姫がくれた仏様とのご縁。辰姫が悩んでいる私に不動明王を呼んで下さった・・・
 私はそう思っている。

 ただの偶然かもしれない。
 考えすぎとか、宗教まがいのスピリチュアルが過ぎるなどと思われる方々もきっとあられるであろう。
 しかし、”縁”を感じた以上、その御縁は大切にしていきたい、育んでいきたいと私は思っている。
 感謝に対し手を合わせ読経をしたりする事が、誰かに迷惑をかけているわけでもない。誰に勧めているわけでもない。
 自分自身の心の問題だ。

 ・・・それで何かいい事でもあったのかいと聞かれたらそれは私にも解らない。
 そんな目に見える損得の事だけを考えて私は読経や祈願などしない。していない。
 まして宗教の団体などには絶対に属さない。
 私だけの個人の信仰だ。

 ・・・と、まぁ、そんな事もあったりもする。

 煩悩の塊のような、そして、辰姫の事を世に知ってもらおうと思っていつつも大した事の出来ないこの私に、辰姫がよくしてくれていると、いつもそんな事を思ってしまう。

 そんな私です。

【エッセイ】感謝しきれません

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 日々辰姫に感謝と読経を捧げている。
 辰姫の研究を始めて以降、いや、初めて辰姫の墓を訪れたその時から、それらをキッカケに私は様々なものを得た。
 いや・・・授かったのであろう。授かったと思っている。

 辰姫の生涯と人柄。
 東楊寺、その住職様夫妻と副住職様とのご縁。
 津軽の歴史。
 津軽の地での人々とのご縁。
 仏教の知識と智慧。
 先祖と故人への感謝と供養と信仰心。
 慈悲の心。
 日々の様々な偶然と思える出来事も・・・

 私のそれらの全ての根源に辰姫の存在がある。
 だから私は、それらは辰姫からの授かりものだと思っている。

 でも、
 その辰姫に私は大した事がしてあげられていない。

 私は歴史上人物の中では、日本史・・・いや、日本を含めた世界の歴史上人物の中でも、辰姫が一番好きです。
 だからこそ自身で、住まいから日本の半分ほど離れている距離の青森(津軽)まで足を運び、辰姫についての調査や聞き込みも行った(その際に辰姫の夫の津軽信枚、息子の信義、兄の杉山源吾の墓参り(墓前での読経)もした。またしたいと思っている)。

 でも、まだまだ辰姫の事を解明しきれていない事が多い。

 日々読経を捧げ、感謝しきれない辰姫だが、その一方、時折自身が困った時に心の中で「私はどうしたらいいのでしょうか・・・」とか「力を貸して下さい・・・助けて下さい・・・」と頼んでしまう事がある。
 私がもっとしっかりしていれば、もっと多くの人々が辰姫の事を知ってくれていたかもしれない・・・。
 もし、私が僧侶なら、もっと上手な、もっともっと功徳ある読経を捧げてあげられるのかもしれないのに・・・。
 大した事をしてあげられていないのに、授かってばかりなのに・・・
 その様に頼み事をしてしまう事がある私。

 こんな情けなく小さな私に辰姫もガッカリしてしまっているのではないか・・・そう思ってしまう事がある。

 それでも私は辰姫の事を一人でも多くの方々に知ってもらう為に出来る限りの事をしつつ、自身で辰姫のご供養(日々の読経と月に一度の墓参り)も、生きているうちはずっと続けたいと思っている。

 そんな不肖の私とご縁を結んでくれた辰姫に、ただただ感謝しかない。
 そして、自分の力の無さと未熟さに、「ごめんなさい」と心に呟く私がいる。

【エッセイ】6月の辰姫の墓参り

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 月も6月になり、私自身の毎月の恒例行事である辰姫の墓参りに行ってきた。

 曇り空で湿気もあり雨を心配したが、現地につくと曇りで日差しが無く、かえって過ごしやすかった。雨も降る様子はなくなっていた。

 本堂前で東楊寺の本尊である薬師如来と本堂内に共に祀られてある不動明王に向い読経を捧げ感謝を回向し、辰姫の墓前に向かう。
 本堂内の不動明王には今まで関心と信仰心は正直なかったのだが、以前の記事に書いているが(参照して下さい)辰姫をキッカケに不動明王への関心とご縁を頂いたと私は思っているので、それ以後、不動明王に対しても日々の読経をしている事もあり、読経と回向をさせてもらった。

 自身の近況を述べ、しっかりと感謝と想いを述べ、辰姫の墓前で読経をし回向をする。

 境内にはだれ一人おらず、辰姫と二人だけで向き合っているような気になった。私としてはいつもの事だが。

 当ブログの研究記事は進んでいないが、辰姫という人物とその生涯を知る上では、全て見て頂ければその実像はおおよそ解って頂けるまでの無いようにはなっていると私は思っている。
 更新頻度の少ない当ブログだが、毎日、アクセス数が数十件あるという事は、それだけでも辰姫の事を知って下さる方々が日々おられるという証なので、私としては嬉しく思っている。
 きっと辰姫も喜んで下さるはずだと勝手に想像してしまう私がいる。

 先日、TVで映画の関ケ原(原作:司馬遼太郎)が放映されていた。
 研究記事の中にも書いているが、辰姫が初めて映像として登場した創作品だ。映画館にも見に行ったがTVでも見た。
 もっとも創作品なので原作者の司馬遼太郎の作り上げたフィクションがふんだんに盛り込まれていて真実ではないが、映像化(実写化)された”おね”の養女としての幼い辰姫の姿は、私にとっては嬉しくもあり、辰姫という人物が世間に知られる為の手段の一つとしては大目に見れるかなといったところだ。
 もっともその映画関ケ原の中で辰姫が登場するのは僅か一分にも満たないのだが・・・。

 もうじき梅雨に入る。
 そうなれば墓前で線香を焚き、読経を捧げる事も出来なくなる。

 その前に何とかこうして6月の分の墓参りと読経が出来てよかったと思っている。
 そうでなくても日々辰姫の戒名に向い読経を捧げ回向をしているのだが、それだけでは私の気が済まない。

 歴史研究対象や好きな歴史上人物として、というだけでなく、私は辰姫という人物に感謝と敬愛の念を持っている。
 以前の記事にも書いているが、感謝しきれない。
 縁というものがあるなら、その縁に感謝しきれない。

 そんな辰姫の事を知って下さる方々が増えるよう、このブログは存続し続ける。
 そして、新たな発見があれば当然記事にして公表する。その事に私利私欲は無い。
 辰姫の事を知って下さる方がこれからも増える事を切に望む私がいる。

 そして、これからもずっと辰姫の供養が出来れば、私にとってこれほど子供の様だが、嬉しく思う事は無い。

弘前の貞昌寺の辰姫の墓石

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 2016年9月3日と9月4日に青森県弘前市にある貞昌寺に行きました。

 貞昌寺には辰姫の一人息子である津軽家三代目津軽信義が建立した辰姫の墓石(供養塔)があります。

 
 ↑ 貞昌寺の墓地の奥に並ぶ4基の墓石(供養塔)。左から二番目が辰姫の墓石。

 
 ↑ 津軽信義が建立した津軽の辰姫の墓石。

 
 ↑ 群馬県太田市尾島町の東楊寺の辰姫の墓石の大体4倍以上の大きさで石材もしっかりしている。


 資料やネットなどの情報の中には弘前の貞昌寺の辰姫の墓石には戒名や没年月日などは彫られていないと示しているものも多くあります。私も今回実際に弘前の貞昌寺の辰姫の墓石を直に見るまではそれらの資料などの説を信じていました。
 しかし、実際は異なりました。

 
 ↑ 墓石には戒名の一部と”誠以”という字と没年月日が彫られています。

 以前の辰姫研究記事の中で、弘前の辰姫の墓石には戒名は彫られていないと記載していましたが、それらは訂正させて頂きました。

 厳密には”戒名の一部が彫られていない”というのが正しいです。

 また、石田三成(石田一族)の研究の第一人者ともいえる白石氏も書籍の中で辰姫の戒名を荘厳院殿果念崇吟大姉(そうげんいんでんかねんそうぎんだいし)と示していますが、正しくは、荘厳院果シン(言ベンに念じると書きます)崇吟大姉(そうげんいんでんかしんすううぎんだいし)で間違いありません(辰姫研究記事の辰姫の名前の記事を参照下さい)。
 これは、貞昌寺の副住職様にも直接お話を伺い、確認済みです。上の写真の墓石の右脇に彫られているのが判ります。
 しかし、彫られているのは”果シン崇吟大姉”とのみあり、”荘厳院殿”という部分が彫られていません。
 ”院殿”は戒名の位で最上位を示すもので、生前に社会に対し絶大な貢献をしたり、相当の身分の人だったという事を示しているものです。”大姉”は女性を示し、女性の戒名では最上位で信心深いという事を示しています。が、当時の時代で大名の奥方ともなれば大姉はほぼ自然とつけられていた節もあります。当時において仏教は現代以上に日常に浸透し重要視され、武家の女性おいても教養の一つとしてたしなまれていた可能性は非常に高いです。
 なぜ院殿という社会性や身分を示す最上位の号が墓石に彫られていないのか。意図的にか、または以前は違う箇所や別の何かに示されていたのか。それを知る術はありません。副住職様も解らないとの事でした。

 また、墓石に大きく彫られている”誠以”の文字の意味も正しく言いきれないところがあり、副住職様のお話しでは「生前は不遇や不本意な人生だったでしょうから、”誠意をもって”供養させて頂きますという当時の人の想いを示したのではないでしょうか・・・」と語られていました。

 没年月日も東楊寺の墓石とも異なります。
 他の辰姫研究記事にも記載していますが、ただしこれは辰姫の戒名は荘厳院殿・・・のものは貞昌院殿・・・の戒名の宗派から改宗しつけられているので、この荘厳院殿・・・の戒名を付けた日にちか、それに関係する日にちを付けたものと考えられます。

 この貞昌寺の辰姫の墓石は建立時は別の場所にあったとの事ですが、その場所(寺)が大火災にて周囲一帯まで全焼してしまい、今の貞昌寺の場所に移されたと副住職様は言われていました。

 すなわち、現在の東楊寺・貞昌寺の辰姫の墓石の下には辰姫の亡骸・お骨は存在していません。位牌もありません。
 これは両寺の住職様や副住職様に伺い確認済みです。

 しかし、墓石が現存し、戒名が解っているという事は、辰姫の生前の人柄を見出す為の手掛かりになります。


 辰姫研究の際に聞き込みやインタビューなどを再三実施していますが、その都度思う事は、想像以上に世間ではまだ辰姫は名前すら知られていないという事を痛感しています。
 これからは一人でも多くの方が辰姫の存在を知り、機会があれば墓前に手を合わせに来られる事を願ってやみません。

長勝寺の津軽信枚・満天姫・津軽信義の廟(墓)

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 2016年9月3日に青森県弘前市の長勝寺に行きました。

 長勝寺は津軽家の菩提寺です。津軽家の歴代の藩主と満天姫の廟があります。

  
 ↑ 辰姫の夫・津軽家二代目津軽信枚の廟

 
 ↑ 信枚の廟。読み見る堂の正面の扉に津軽家の家紋が薄っすら描かれています。

 
 ↑ 信枚の廟の上の方にも津軽家の家紋がしっかり添えられています。

 
 ↑ 満天姫の廟。信枚の廟の隣に位置します。

 
 ↑ 満天姫の廟の正面の扉には徳川の家紋が描かれています。津軽家の家紋は全く描かれていません。

 
 ↑ 満天姫の廟の上の方にも徳川の家紋が。あちこちに徳川の家紋が描かれています。

 
 ↑ 辰姫の一人息子、津軽家三代目津軽信義の廟

 
 ↑ 津軽信義の廟。父・信枚同様に廟の正面の扉には津軽家の家紋が描かれています。

 
 ↑ 津軽信義の廟。廟の上の方にも津軽家の家紋がしっかり添えられています。

 津軽家藩主たちの廟は入り口から信枚・満天姫・信義・それ以後の藩主の順で建てられています。

 写真を見てお分かりの通り、満天姫の廟には津軽家の家紋は一切描かれておらず、描かれている家紋は全て徳川の家紋です。
 この事だけを見ても、満天姫が自身に流れる徳川の血筋をアイデンティティとしていたかが伺えます。
 もし、満天姫が津軽家の人間としての事を重んじたのであれば満天姫の廟にも津軽家の家紋が描かれているはずです。また、もし周囲が満天姫に対し徳川出身の人間である事を重視していたとしても満天姫に津軽家を最も重んじる気持ちがあったのであれば、死後に徳川の家紋を用いる事無く津軽家の家紋を用いるようにと遺言していたはずなのです。
 しかし、実際は写真の通りに津軽家の家紋は一切用いておらず、廟のあちこちに、これでもかというくらいに徳川の家紋を描かせています。
 津軽家に嫁いだ後も、津軽家の人間としてではなく、あくまで徳川の人間であるという事を強調し続けた満天姫の人間性を垣間見れます。

 ちなみに、別の寺に安置されている石田三成の次男であり辰姫の兄である杉山源吾の実の子、つまり源吾の子孫らの墓石には”豊臣”の文字が刻まれています。
 徳川の世となり、墓石に豊臣の文字を刻む事は一族を危険に晒す事以外の何物でもないはずなのに、にもかかわらずに豊臣の文字を刻んでいます。
 豊臣公儀存続に全てを捧げた石田(三成)の血統と三成の意志をどれほど大切にしていたかが解ります。
 また、辰姫の墓石・供養塔には名字に当たるものは一切彫られておりません。
 これらの事を総合的(辰姫の戒名も含め)に考察してみても、辰姫が自身の血筋よりその瞬間瞬間を必死に健気に生きていたという事が解るはずです(でなければ”教説”という多くの人に慕われ教え説く人という意味の語句を死後つけられる戒名につけられるはずがないからです)。

 当時、いかに血筋というものがアイデンティティとして重要視されていたかがハッキリ伝わってきます。

 そして、辰姫を正室から側室へ降格させ大館の地に追いやった満天姫が、津軽家に嫁いだにもかかわらずに津軽家より徳川家(の出身であるという事)の事を意識していたかがハッキリ現れています。

長勝寺の城と変わらない造りから見える津軽信枚の覚悟

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 2016年9月3日、青森県弘前市の長勝寺の津軽家歴代の当主の廟を巡った際に長勝寺の説明を寺の従業員に伺いました。

 
 ↑ 長勝寺の入り口の門。境内の津軽家の代々の当主の廟の前に行く為には有料です。

 長勝寺は津軽家の菩提寺ですが寺の堂の中の造りは書院造となっており、本尊を祭る場所は住職以上の身分の人間でないと入れないという事を示す造りになっており、長勝寺には長勝寺自体の門と更に密集している寺の一帯に入る為の門と、門が二重に設置されています。まさに城の機能を有しています。
 寺が幾つも密集し、その一番奥に長勝寺が存在します。

 長勝寺とその周囲に密集する寺は弘前城(高岡城)の着工と同時に津軽信枚が命じ、津軽に散らばる寺を密集させ、更にこの寺群と長勝寺のある場所は、本来は城を気付く予定の地でした。
 しかし、山頂が険しい為、その山頂を削り、寺群と長勝寺を設けています。

 津軽信枚は弘前城(高岡城)に万が一があった時の出城としてこの寺群と長勝寺を着工・完成させています。それは今現在でも寺が観光客に述べています。

 辰姫研究の津軽信枚に関しての記事に記していますが(そちらも参照下さい。詳しく述べています)、弘前城(高岡城)は津軽為信が着工し、途中でその工事を中止しています。数年もそのままの状態でしたが、津軽信枚が辰姫の輿入れの年に弘前城の工事を再開し、僅かな期間で櫓や堀など城自体はおろか、城下町も治水工事も着工し完成させています。まさに突貫工事です。
 しかもその弘前城と時を同じくして出城としての機能を有する長勝寺と寺群を設けています。


 辰姫の輿入れは関ケ原の戦いから10年が経過してからです。
 既に時代は徳川に流れが傾き戦も無い時代、しかも関ケ原の戦いで東軍に組し表向きは徳川寄りの態度を示していた(この時既に津軽家には秘蔵とし江戸時代を通し代々崇める事になる秀吉像がもたらされています)にも拘わらずに、城とその一帯の城下町や治水の突貫工事や出城代わりの寺群・長勝寺を建設するに至ったのか。

 不自然です。

 これらの全ての工事(ハッキリ言えば戦備え・軍事行動)は辰姫の輿入れの年から開始されています。

 それらを総合的に考えると、全て辰姫と結びつきます。
 つまり、津軽信枚は辰姫の輿入れによって生じた戦のリスクに備えたという事が言えます。
 では、石田三成の実の娘である辰姫を娶る事によって戦となる家はどの大名か?明らかに徳川家です。
 もし、信枚に徳川家に素直に従順する気があるのであれば、このような軍事行動をとる必要はありません。にも拘らずに突貫工事すら敢行しこの工事(軍事準備)をしたのはなぜか?
 また、辰姫を徳川から匿う方法は輿入れを拒否したり離縁したり寺に出すなりいくらでも方法があったはずです。
 しかし信枚は辰姫を娶り、しかも満天姫の輿入れの後も側室として大館の地に移住を余儀なくされながらも妻として手放してはいません。

 私の考察では、すなわち、
 津軽信枚は表向きは徳川に寄りながらも本心は豊臣公儀への忠誠を持ち、辰姫を石田三成の娘と承知しながら、そのリスクも受け入れ、その事で徳川家(幕府)が津軽に手を出そうとも辰姫を離さず、津軽家と津軽の地をかけてでも辰姫を守ろうとした。その為の弘前城(高岡城)、城下町、治水、出城代わりの寺群・長勝寺の建設と見ています。

 満天姫の輿入れは徳川家が信枚に対する”踏み絵”とみてよいでしょう。
 拒否すれば潰す(国力は津軽家は約10万石、徳川家自体は255万石以上)。受け入れれば津軽という東北の要所(大きな勢力である最上家や伊達家に睨みが利かせられる位置)を有する津軽家を傘下同然に出来、繋がりを持てます。しかも満天姫から津軽家の情勢を入手する事も可能です。

 ここまでの準備をしながらも満天姫を娶り、辰姫を側室に降格し大館の地に移住させたのは、信枚の本意ではなかった可能性が高いと誰の目から見ても明らかでしょう。

 これはあくまで推測ですが、信枚は満天姫を受け入れ辰姫を側室に降格させ大館の地に移住させるよう説得をされたのではないかと考えられます。
 そう考えれば天海あたりが有力ですが・・・
 一族、親、親類縁者、故郷に至るまでを戦で失なった辰姫は、城や城下、治水、出城(寺群・長勝寺)の建設を突貫工事で進め、戦備えをする夫・信枚の姿を見てどう思っていたのでしょうか・・・。
 これはあくまで推測です。
 推測ですが、私は天海と辰姫の両人が個々、信枚を説得したものと考えています。もちろん天海と辰姫は共に通じ同じ内容で説得したのではないと推測します。あくまで別々に無関係にです。
 あくまで推測ですが。


 ただ、ハッキリと導き出せる事は、長勝寺の建設も軍事準備の一つであり、その背景には辰姫の存在が大きく関与していたであろうという事です。

 ちなみに満天姫の輿入れの際は、信枚はこうした建設や軍事につながる様な行動は全く行っていません。

高台院(おね)の隠れた素顔と辰姫の忍辱と心の強さ

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 辰姫は津軽家に嫁ぐ前に高台院(秀吉の正室:おね)の養女になっています。おねの養女になったのは1598(慶長3)年で辰姫が7歳の時です。

 ここで見逃してならないのは辰姫が養女になった1598(慶長3)年は豊臣秀吉が他界した年だという事です。

 おねの立場から見れば、自分の夫であり天下人でもある秀吉が危篤・死去した年になぜ石田三成の娘の辰姫を養女にする必要があったのでしょうか。
 天下人の正室の養女になるという事は通常、喜ばしい出来事のはずです。
 しかし、実際は秀吉の死去した年に辰姫を養女にしています。冷静に考えれば、仮に表向きでも喪に服す姿勢を取り、養子縁組等の行動はとらないはずです。

 天下人である秀吉の他界した喪に服すべき年では、いかに天下人の正室あるおねの養女になるという養子縁組というめでたい話でも、誰も公に喜んではくれません。
 つまり、高台院の養女になっても、辰姫は公には誰にも祝ってもらえなかった(陰で身内には「おめでとう」と言ってもらえたのかもしれませんね)という事になります。

 この事から見える事は、秀吉他界の年であろうとも、おねがその時期に辰姫を養女にする理由があったという事になります。

 天下人の正室のおねの願いでなら、石田三成は断るはずがありません。

 また、石田三成の立場から見れば、秀吉他界の年の時期には五奉行の筆頭であり秀吉にも豊臣政権において中核に置くべき人物と認められています。その事は石田三成が当時の日本全国の様々な国の検地を任されていた事が物語っています(全国の年貢の基準を統一しその大名の収益を完全に把握し豊臣政権に収益をもたらすという事は日本全体の運営に直結する事だからです。能力もあり信頼のおける人物でないと任せるはずがありません)。
 豊臣政権内では立場的には全く問題の無い、しかも豊臣政権に忠節を置いている石田三成です。
 そんな石田三成が秀吉死去の年におねに辰姫を養女にするという養子縁組を申し出るわけがありません。

 その事から見て、おねが辰姫を養女に迎え入れるという事はおねの側から申し出た事というのが可能性的に大だという事が見て取れます。

 ではなぜ、秀吉他界の喪に服すべき年なのか。

 おねには実子がありません。
 ゆえにおねの立場は秀吉あったればこそ、秀吉政権あったればこそなのです。
 おねは加藤清正や福島正則など子飼いの諸将をわが子のようにかわいがっています。それは石田三成も同様ですが、石田三成はその加藤や福島ら諸将に襲撃され、奉行の立場を追われ佐和山に蟄居の立場を強いられています。
 それでもその三成の娘の辰姫を養女に迎え入れています。

 つまり、おねから見れば、石田三成こそ豊臣政権に不可欠な人物であり、豊臣政権を維持し、かつ己の立場も守る為には石田三成を頼る以外にないとこの時は見ていた事がわかります。
 でなければ石田三成以外の大名の子(男女問わず)を養子縁組するはずだからです。

 TVドラマや創作品では、いまだにおねは石田三成を敬遠している姿を描いているものが多くありますが、近年の調査では、おねが豊臣政権を存続させるために動いていたという動向や資料や調査結果が発見されたり出ています。


 しかし、関ケ原の戦いの後、三成死後も辰姫は津軽に嫁ぐまでの10年もの間、高台院(おね)の養女であり続けます。
 その間は高台院(おね)の執事の孝蔵主と共に養女としての教育を受けながら執事に従事していたとみられる(主に書状を手渡したり面会窓口の働きをする”御披露人”。詳しくは他の記事(”カテゴリーのお客人=辰姫説”)をご覧ください)辰姫ですが、執事故、当然、加藤清正や福島正則等のおねの子飼いだった諸将の書状やその姿を目にしていたはずです。
 父・石田三成を死に追いやった人々と辰姫が知っていたかは定かではありません。しかし、高台院(おね)の養女であり執事でもあった辰姫です。父の敵の顔や名前を知っていてもおかしくはありません。

 父の敵が自分の養母と会い、話をしている。通じている。
 その高台院(おね)の姿や諸将を辰姫はどのような気持ちで見ていたのか・・・接していたのか・・・。

 もし、高台院(おね)に辰姫の事を思いやる気持ちのかけらもあれば、辰姫を自分の傍に養女として執事として置いたままにするはずがありません。

 徳川家康は老齢に差し掛かり、この時代にはすでに老人としての齢です。高台院(おね)からずれば、家康が死去すれば豊臣政権の盛り返しの兆しもあろうと考えてもおかしくはありません。
 その時、豊臣政権に忠節を尽くし一族すら犠牲にした石田三成の娘である辰姫は政治利用の価値が再び出てくるかもしれません。そう考えれば辰姫を手元に置いておく事は高台院(おね)に有益です。
 しかも、”お客人=辰姫説”の記事の中で書いていますが、辰姫は周囲にその素性を隠しています。豊臣秀頼と豊臣政権は衰えたとはいえまだ健在であり、高台院(おね)の立場であれば万が一、辰姫の存在が露見し公になったとしても何とか出来た時期だと見て取れます。

 しかし、それは辰姫の側から見ればこれ以上惨い仕打ちはありません。
 父の敵が養母と親しく接し、話をし、関わりを保つその姿を目の当たりにするのですから。

 その証拠に、高台院(おね)が元・子飼いの諸将と親密に密会を繰り返していた1610(慶長15)年に孝蔵主の働きで辰姫は京から離れた日本の最北端の津軽家に嫁いでいます。
 辰姫の津軽家輿入れと同時に孝蔵主も高台院(おね)のもとを去っています。

 この事からも孝蔵主は高台院(おね)の仕打ち・態度に嫌気がさし、同時に辰姫が津軽家に嫁ぎ高台院のもとを離れた事に安堵した可能性があります。
 その事は石田三成研究で著名な白石了氏も著書の中で同様の事を述べています。


 つまりは、高台院(おね)にとって辰姫は政治利用の道具でしかなく、実子が無い為、身内や面倒を見ていた子たちをわが子の様に可愛がったという、TVドラマや創作品では描かれない高台院(おね)の非情さと冷酷さがハッキリわかります。


 これは私の推測と想像に他なりませんが、父の敵達をその目にし、養母にその書状や案内をする辰姫の心中と姿を想うと胸が痛みます。
 もしかしたら人知れず涙し、孝蔵主に慰められていたのかも・・・または気丈に振る舞っていたのかもしれません。


 辰姫はただ歴史や周囲や権力に流された人物では決してありません。
 辰姫は自分の立場をしっかり理解し、耐えがたきを耐える心を持った女性・姫君であった事が見て取れます。

津軽信義の行動から見える辰姫の母としての深い愛情

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 辰姫の性格や人柄を直接表現している史料は存在しません。
 しかし、他の人物やお家や書状の史料をしっかり見て考察していくと辰姫の人柄の一端が見えてきます。

 辰姫には津軽信義(辰姫の一人息子、津軽家三代目大名・藩主)という実子がおり、その信義についても研究記事にしたためています。
 この津軽信義を知る事でも辰姫の人柄の一端が見えます。


 今までの研究記事(津軽信義についてと辰姫の愛情に関する記事)を参照頂いた事を前提に今回の記事は書き記していきますが、この津軽信義を追っていくと辰姫がいかに母性あふれた女性で、信義が辰姫に深い愛情を受けていたかが伺えます。

 津軽信義は奇行が目立ち、更に”ジョッパリ殿様”と言われるほど強情な殿さまでしたが、その奇行と性格は成長発達過程において母の愛情が最も人格に影響するという生後から4~5歳の時期に母・辰姫が他界してしまった事と、その4~5歳までの間、大館という限られた地で史料に”幽閉同然”と示されるような生活・日々を送らざるを得なかった事にあると私は以前の研究記事の中で述べました。

 信義の奇行とは、その殆どが”反徳川”の態度をあからさまにしていたという事です。
 信義の時代は既に豊臣家は滅亡し、徳川幕府管理下に置いて全国が運営されていた時期です。その時期に”反徳川”の姿勢や行動を隠しもせず公にするという事は、お家にとって全国を敵に回すという自殺行為の何物でもなく、徳川政権にいつ揉み潰されてもおかしくない程のリスクを背負っていたからです。
 ・・・この辺りは以前の研究記事のおさらいとして一応記しました。


 しかしながら、その信義の奇行は、幼くして亡くした母・辰姫への愛情が本当に垣間見るのです。


 津軽信義の奇行と言われるものの中で、辰姫がいかに4~5年という短い間に信義(幼名:平蔵)に愛情を注いだという事が反映しているものとして、私は信義が自領内に設けていた東照宮の別当・東照院(寛永元年創設)を薬王院と改称した事に注目します。

 東照院は辰姫の夫にして信義の実父の津軽信枚と辰姫から正室の座を奪い側室に降格させ辰姫の大館移住の原因そのものをつくり自らが信枚の正室となった徳川家康の元養女・満天姫が作り上げた、津軽領内の東照宮の別当です。

 信義は満天姫死後(信枚は満天姫よりも先に他界しています)にこの東照院を薬王院と改称します。

 信枚も信義も徳川家(幕府)の中枢の人物である天海と師弟関係を結んでいます(ゆえに津軽家は天海の宗派である天台宗に改宗しています)。
 薬王院改称は当然天海も知っていたはずです。
 ”東照”とは言うまでもなく徳川家康の死後名付けられた”東照大権現”から来ています。神君となった家康の名です。
 その神君を崇める建設物から神君の文字である”東照”の文字を抹消するという事は現代風にしかも簡単に言うならば「家康を認めませんよ」と公言するのと同様です。

 すなわち、幕府・神君家康を拒絶していますよ、という事であり、幕府の怒りを買ってもおかしくない行為なのです。
 お家にとっては自殺行為にも匹敵するこの行為を信義は敢行します。

 幕府の怒りを買う行為だという事は当然当時の人間であるなら身分問わず理解できていた事です。
 しかもその行為を満天姫死後に天海に知られる事は承知で堂々と行っています。

 最も注目すべきは別当であったにもかかわらず、東照院という建物を改称したという事です。
 ではなぜ、東照院改称がそんなに注目すべき事なのかというのをこれから述べます。


 先に述べた通り、東照院は津軽信義の父にして辰姫の夫の津軽信枚と満天姫によって創設されています。

 もし、信義に実父・信枚への想いや遠慮があったのであれば・・・。
 もし、辰姫死後、自身の養母となった満天姫への想いや配慮、遠慮などがあったのであれば・・・。
 両名が手掛け残した建設物である”東照院”はその名称すらも残している筈です。

 それでも信義は”東照”の文字を抹消します。上記したお家にとってのリスクがあってもです。

 実父・信枚や養母・満天姫を凌駕するほどの何かがあったからこそ、信義は”東照”という名を津軽の地から抹消しているのです。

 私はそれはひとえに”信義の母・辰姫への感情”の表れとみています。

 お家を危険に晒すリスクがあろうとも、津軽の地から”東照”という文字を消したかったから消しているのです。
 しかも、それが実父と養母が手掛け称したものであったとしても消しているのです。

 母・辰姫と僅か5年弱という短い期間を、年に一回しか会いに来ない(厳密には来れない)父。本領津軽に足を運ぶ事も出来ない。自分を生んで育て一緒にいた母が、実は満天姫の存在によってその境遇を強いられた事を知った時の信義の心中は決して穏やかでなかったであろうという事は誰にでも推測できるところです。

 以前の記事にも記していますが、信義は辰姫他界後に辰姫の墓を津軽の地に移す事を満天姫によって拒否され、満天姫死後にようやく辰姫の墓を津軽の地に設けています。
 成人し、一国の主となってからも信義は、しかも二十年以上という月日を要しても自分も同じ石田の血を引く母(辰姫)の墓を自身の領内に移し、死後自らの廟に津軽家の家紋ではなく徳川家の家紋を無数にかざしている満天姫の手掛けた東照院から、神君家康・徳川を象徴する”東照”の文字を一掃しています。
 お家のリスクがあってもです。

 ちなみに信義が正式に津軽家当主として幕府に認められたのは信義13歳の時です。
 ・・・明らかに津軽家にとって当時の信義は”傀儡”です。
 現代に例えるなら13歳の中学一~二年生が県・都知事になるという事と同じです。国政が出来るはずもありません。
 それは信義も自覚していたはずです。
 その反動からか、強引なまでの姿勢で津軽家家臣たちをまとめ、後に領内の治水工事まで着工するのですが(当時、治水工事は一大事業であり、津軽の地は治水に関しては困難極まる地形で、結果は失敗に終わるのですが、信義の着手した治水計画は内容が斬新であり、現在でも高く評価を残しています)・・・。
 更に付け加えれば、信義の他界の際、家臣四名が殉死しています。
 この事からも、奇行と称されながらもその背景に潜むものと信義をしっかり理解していた家臣、信義を慕う家臣が確かにいたという事が解ります。
(超余談ですが、来年の大河ドラマ主人公”井伊直虎”の世継ぎの井伊直政(徳川四天王の一人)は、家臣への厳しさが尋常ではなく、慕う家臣は無く、家臣は誰も殉死していません。)


 辰姫は信義が5歳になる前(4歳の時)に病死しています。
 しかし、その後、異常なまでにあからさまに”反徳川”の行動をとり続けていた事、や、辰姫の墓建設や東照院改称など、その背景に辰姫の存在が浮かび上がるものが多くある事から、成人してからの信義に辰姫は影響し続けている事が解ります。

 そこまで強烈に信義の中に残り続けるほど、辰姫はたった5年弱という短い時間の中で、信義に信義が生涯捨てきれない程の、抱え続けるほどの”母の愛情”を辰姫は確かに注いだという事なのです。
 そう、津軽家の国政を動かすほどに。


 辰姫は我が子に対し、我が子が生涯忘れる事がないほどの、津軽家の国政に影響するほどの、精一杯の溢れんばかりの愛情を注いだ母親であり姫君だったのです。

津軽信義の行動から見える、辰姫の”石田三成の血統”である事に対する精神

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 前回(昨日)の辰姫研究記事の「津軽信義の行動から見える辰姫の母としての深い愛情」でも述べましたが、津軽信義の行動の背景と信義の生い立ちをしっかり見ていくと、史料には無い辰姫の人柄の一端が垣間見えてきます。

 「津軽信義の行動から見える辰姫の母としての深い愛情」の記事で触れなかった津軽信義の行動からも辰姫の人柄が見えます。


 それは、津軽信義が津軽家当主となってから自分は石田三成の孫であると公言しそれを誇っていたという事からも垣間見えます。
 もし仮に津軽信義でなくてその子孫であったとしても、石田三成の血統であるという事が大切に受け継ぎ教授されていたかで、その発祥となるのが辰姫という事であるから、辰姫がいかに石田の血統である事に肯定的であったかが見受けられます。


 時代は徳川の世となり、それ以後も石田一族や関係者・関連物の抹消に徳川幕府は必要に行動をとり続けています。後世に言う「石田狩り」です。

 その時代であるにも関わらず、津軽信義は自身が石田三成の孫にあたると誇らしげに周囲に発言しているのです。
 これは津軽家にとってまさに自殺行為に匹敵する行為です。津軽家にとって特になる事は一切ないどころかリスクの身の行動です。
 しかし津軽信義ははばかりませんでした。

 自身が石田三成の血を受け継いでいる事、その血は辰姫から受け継いでいるものであり、実母・辰姫も自身と同様に石田三成を血を受け継いでいた事は当然津軽信義は幼い日に知らされていたはずです。
 津軽家の長男でありながら大館の地に母・辰姫とひっそりと暮らさなければならなかったその原因の根本(石田の血統である事)を幼い信義(幼名:平蔵)自身も知りたがったのではないでしょうか(推測ですが)。

 史料に”大館の地に幽閉同然”と例えられるほどの境遇を幼い日々に体験しつつも、成人後、しかも津軽家当主であり、全国の外様大名の一人という立場になったにもかかわらず、石田三成の孫であるという事を口にするのは、信義が余程に石田の血統に誇りを持っていたという事以外にありません。

 また、母・辰姫と過ごした幼い日々の中でもし母である辰姫が石田の血統である事を嘆き悲しみ周囲に口にしたという事があったのであれば、その姿を記憶にとどめていたであろう信義は石田の血統を自慢するどころか、その事実の抹消に努め、自らの血統を呪ったはずです。

 つまり、母である辰姫が自分に流れる石田の血統を大切に毅然と振る舞っていたからこそ、信義は成人後も石田の血統を誇る人格になったという事が解ります。


 すなわち、置かれた境遇や環境がいかなるものであったとしても、辰姫はその境遇や環境を招く根源である石田の血統を嘆き悲しんだり悲観する事無く、むしろ大切にしていたという事になるのです。

 夫(津軽信枚)と遠く離れた大館の地に正室から側室に降格されても、その夫と年に一回の参勤交代の時にしか会えなくても(他の研究記事に詳しく述べています。参照下さい)、正室に徳川家康の養女・満天姫が居座っても、幼い一人息子の信義の将来に不安を抱いても、辰姫は石田の血統を悲観しそれを態度に出すなんて事は無かったはずなのです。そのような態度は信義の目の前では微塵も見せた事が無い筈です。
 それ以前に悲観する事自体なかった可能性の方が大でしょう。


 辰姫は石田(三成)の血統であるという事を誇りとして信義に態度にして見せ、言って聞かせ(であろう)たに違いないでしょう。そして津軽信義はそんな母・辰姫の存在と精神と愛情を生涯忘れる事無く抱き続けたと言い切れます。


 ・・・また、周囲から”ジョッパリ殿様”のアダ名を言われるほど強情で奇行を繰り返そうと、津軽信義の本心・本当の人間性は”お母さん、大好き!”な一人息子だったのかがわかりますね。

【エッセイ】研究だけでなく、歴史愛好家の一人としてとしても

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 当サイトで辰姫の事を知った方、また、辰姫の生涯の詳細を知った方々はどれほどおられるでしょうか。

 当サイトこのカテゴリー(エッセイ(辰姫と私))では、当サイト管理人である私の個人的な辰姫への印象や想いなどを書いていこうと思います。

 以前もエッセイとして記事にしたためておりましたが、エッセイ記事を一新し、こうして再びエッセイとしても綴っていこうと思っています。

 こうして当サイトの記事を再び再開するまでに相当な月日が経ってしまっていましたが、歴史愛好家の方々や辰姫や辰姫の関係する人物といった歴史上人物への想いなどが深まってくれれば、うれしい限りです。

【エッセイ】史実を曲げる創作品のリスク

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 当サイト(ブログ)に訪れて下さった皆様、辰姫の研究記事はいかほど目を通して下さったでしょうか?

 昨今、小説やドラマ映画など様々な創作品があふれ、その中で様々な歴史上人物達が史実とは異なる”時には神がかった英雄像”または”見る者が面白く思うような人柄”として描かれてしまっていますが・・・。

 研究記事を全て来て下さった方はお解りになられたかとは思いますが、”辰姫”は政治に自身から関与する事や謀(はかりごと)をしたり、また満天姫との現代の昼ドラや小説のような”女の戦い”を演じるような事は一切無い生涯であり人柄です。

 むしろ、”一人息子の母”や”夫と離れて暮らす事に耐える妻”という健気な女性としての面の方が際立った女性と私は思っています。

 創作品は所詮は創作品です。見る者が楽しく思い収益が生じるような内容でなくては成り立ちません。どんなに史実に基づこうが史実ではないのです。

 辰姫が登場する創作品の殆ど(といっても数品しかありませんが・・・)が、満天姫と”女の関ケ原”と言う形で女の戦いを演じるように描かれてしまっていいる事が私は悲しく、辰姫を不憫に思ってしまいます。

 辰姫のみならず、様々な歴史上人物達が史実を曲げられ、現代人が面白おかしく楽しめるような姿で描かれ、そのイメージが定着し、歪んだ本人像がいつまでも史実の様に伝わってしまう事は現代人の無責任さであり、歴史上人物達に対する無礼非礼と私は思っています。

 だからこそ・・・
 このブログに目を通して下さった方々には、辰姫の本当の姿と人柄、そして生涯を知ってほしいと願っています。
 
 そして、私には辰姫ですが、歴史が好きで特定の人物に思い入れがあり、その人物を自身で調べ更に理解を深めたいという方がおられるなら、是非、自身で可能な限り調査や検証をしてほしいと思います。
 その過程で感じた事や判明した事は、その歴史上人物が直接ご自身に教えてくれた事であると思えるからです。

 歴史上人物を調べる事は、その歴史上人物との対話です。私はそう思っています。


 これからも多くの方々が辰姫の事を知って下さる事を願いつつ、このサイト(ブログ)を継続していきます。
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